長崎から世界の宝へ〜長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産登録を目指して〜

弾圧…殉教…潜伏…
辛く厳しい迫害の物語。
keyword.4……「バテレン追放令」

明暗--新たな展開!
天正遣欧使節団の旅立ちと殉教。

天正遣欧少年使節顕彰之像
天正遣欧少年使節顕彰之像
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

ザビエルの来日から30年がたった頃、大村領ではキリスト教が盛んな広がりを見せていた。1579年、口之津港に下り立ったのは、その日本におけるキリスト教の広がりを調査にきたイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ。彼は純忠の甥で、肥前の戦国大名だった有馬晴信に洗礼を授け、有馬にセミナリヨを開校。天正10年(1582)、約30年間の日本におけるキリスト教布教の成果をヨーロッパに伝えるために、セミナリヨの一期生4人、天正遣欧少年使節を連れヨーロッパへと旅立った。この4人はいずれもキリシタン大名の使者。豊後・大友宗麟の使者「伊東マンショ」、有馬晴信と大村純忠の使者「千々石ミゲル」、そして、大村純忠の使者「原マルチノ」「中浦ジュリアン」だった。

一方、信長亡き後、全国を統一した豊臣秀吉も、当初はポルトガルとの貿易を容認していた。しかし、しだいに広まりつつあるキリスト教の布教に脅威を感じた秀吉は、強攻策に出る。天正15年(1587)、秀吉はバテレン追放令を出し、宣教師達を追放。教会を破壊させ、長崎・茂木・浦上を没収して直轄地とした。それは、大村純忠の死からわずか1ヶ月のことだった。

天正18年(1590)、実に8年5ヶ月ぶりに帰国した天正遣欧少年使節は、翌年、秀吉に謁見。そのとき、ヨーロッパの旅の報告と共に、持ち帰った楽器を演奏し秀吉を喜ばせたという。

しかし--その間もなく悲劇は起こる。慶長元年(1597)、秀吉の命により、京都で捕らえられた宣教師や日本人信徒達26人が長崎の西坂の丘で殉教するという悲惨な大事件が起こった。日本における最初の殉教日本二十六聖人殉教だ。しかし、当時はまだ長崎の信徒達に対する弾圧ははじまっておらず、約13の教会堂は建てられたまま。とりあえず平和の内にキリスト教は発展していった。

日本二十六聖人記念碑
日本二十六聖人記念碑
   

keyword.5……「禁教令と弾圧」


キリシタンの中心地 長崎が
弾圧と殉教の町へ。

慶長19年(1614)の頃、キリシタンの数は約3万人にものぼっていた。秀吉の死後、全国を統一した徳川家康もまた、南蛮貿易を重要視し、キリシタンに対してほとんど取り締まることがなかったためその数は増え続けたのだ。しかし、増え続けるキリシタンの反乱を恐れた家康は、慶長18年(1612)天領に、2年後には全国に禁教令を出す。長崎の町に点在する教会堂は次々に破壊され、かわりに寺院やキリシタンを取り締まる役所が建てられた。実に元和・寛永年間(1615〜44)の間に寺院30が建立された。 そんななか、元和8年(1622)宣教師や彼らをかくまった信徒一家など55名が捕えられ、西坂の丘で処刑。後に元和の大殉教と呼ばれる同時に最も多くの信徒が処刑されたこの殉教事件を皮切りに幕府の弾圧はさらに強化されていく。

キリシタンであることを明らかにするために使われたのが寛永5年(1628)にはじまった踏み絵。キリシタンだと発覚すると拷問が行われ、この拷問によって転んだ者(改宗すると誓った者)は再びキリシタンに立ち返らないと誓約した起請文を書かされた。
下五島 堂崎教会の踏み絵
下五島 堂崎教会の踏み絵
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

出島が誕生したのもこの時期で寛永13年(1636)。現代では「オランダ商館跡」として知られる出島だが、もともとはキリスト教の布教を禁止するため、ポルトガル人の隔離収容を目的に築造された人工島だった。しかし、完成翌年には島原・天草でキリシタンを多く含む農民による一揆島原の乱が勃発。幕府とポルトガルとの関係が悪化し、ポルトガル人の日本渡航は禁止へ。出島はわずか3年で無人島となった。そして寛永16年(1639)の鎖国令により、ついに宣教師達は追放される--。

原城跡 本丸虎口跡
原城跡 本丸虎口跡
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

※2011.4月〜2012.3月 ナガジン!連載コラム「出島370年物語」参照
※2006.8月 ナガジン!特集「出島2006〜江戸時代の長崎が見えてきた〜」参照
※2003.11月 ナガジン!特集「出島回想録〜出島が日本と世界にもたらしたもの〜」参照

鎖国令によってエスカレートしていったのが、キリシタンに対する弾圧措置。これまでキリシタンの町として繁栄してきた大村領や有馬領などで、ひそかに信仰を続けている信者達の存在が発覚。次々に捕えられ殉教した。代表的なのものに明暦3年(1657)の郡崩れ(こおりくずれ)、がある(翌年、放虎原(ほうこばる) はじめ5ヶ所にて殉教)。“崩れ”とは検挙事件のことで、秘かに信仰を守り続けていたキリシタン達の組織や秘密のルールが崩れるように破壊されることから後にこう呼ばれるようになった。

放虎原殉教地
放虎原殉教地
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

また、島原半島では寛永4年(1627)から8年(1631)まで、藩主松倉重政によりキリシタンに対する弾圧が行われ、信仰を棄てさせるための拷問と処刑が続き、棄教しない者は火あぶり、水責め、逆さつり、果ては雲仙のたぎる熱湯に放り込んだ。現在この雲仙地獄には殉教の碑が建てられている。
 
keyword.6……「潜伏キリシタン」

海を渡り伝播した
秘かな信仰。

上五島 若松瀬戸
上五島 若松瀬戸
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

郡崩れ以降、大村藩のキリシタンへの取り締まりは厳しくなり、大村城下や大村湾周辺ではキリシタンはいなくなった。一方、同じ大村領である外海地方では、秘かに信仰を続けていた人々がいた。
現存する枯松神社、復元されたバスチャン屋敷跡、次兵衛岩などの聖地遺構や、マリア観音など、その秘かな信仰の証が残されている。それは、平戸、浦上地方でも同様のことだった。幕府のキリシタンに対する弾圧は続き、残酷さが増すなかで、禁教令から幕末まで、実に250年余りの長い間、表面は仏教徒を装いながらキリストへの熱い信仰をもって、代々伝え聞いた信仰を守りとおしてきたキリシタン達を潜伏キリシタンという。彼らはマリア観音や納戸神(なんどがみ)などを崇拝し、隠れてオラショという祈りを捧げていた。
枯松神社(外海町)
枯松神社(外海町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

大村藩の目の届きにくい外海地方は、平地が少なく土地はやせ、暮らしていくには困難な土地だったが、秘かに信仰を貫くには都合のいい場所だった。しかし、大村藩は経済の安定を計るため、外海地方の人口増加を防ぐ策として、長男を残し、その他の子どもの間引きを強用。黒崎地区に今も地名が残る「子捨川(こすてごう)」は、間引きのため崖から我が子を投げ落とした悲惨な出来事に由来している。

そして大村藩の人口対策は更なる展開をみせた。寛政9年(1798)、五島藩主五島盛運(もりゆき)が大村藩主大村純鎮(すみやす)に、大村領からの百姓の移住者を要請したのだ。純鎮は快諾。当初の予定は1000人だったが、それをはるかに上回る3000人もの人が移住したという。そして、彼らのほとんどは自らの信仰を貫ける新たな定住地を五島に求めた潜伏キリシタンだった。

移住した人々はキリシタンの取り締まりも大村藩ほどでなく、子どもも自由に生み育てることができる五島の僻地で野山を切り開き懸命に働いた。そんな潜伏キリシタンの間に、伝道師による次のような予言が伝えられる--。
下五島 堂崎教会のかくれマリア像
下五島 堂崎教会のかくれマリア像
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」
「7代250年たったら神父さまが黒船に乗っていやって来て、自由に信仰ができるようになる……」


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