今に伝わる科学&技術用語

食べ物の名前にも、意味も姿も伝来当初と同じのものから、「バッテイラ」や「ポンズ」のように元々の意味とは違う形で日本語化しているものもあった。いずれにせよ「食物」は、ポルトガルやオランダ、当時の日本より何歩も進んだ貿易国から伝わった大きな文化のひとつだった。

そして、進んでいたのは、科学や技術面も当然のことで、平賀源内が追求したその9●れき(蘭/ELECTRICITEIT)こと「エレキテル」、すなわち「電気」や、その10●がす(蘭/GAS)など、現代の人間に欠かせないエネルギーや、今では誰もが携帯しているその11●かめら(蘭/DONKERE KAMER)、そのカメラ用語であるその12●れんず(蘭/LENS)その13●ぴんと(蘭/BRANDPUNT)といったものまで、オランダ語で伝わった。面白いのは、屋根やおもちゃなどの資材としては、どうも昭和初期のイメージが直結するその14●とたん(葡/TUTANGA)その15●ぶりき(蘭/BLIK)も、江戸時代にはすでに伝わり日本語化していたことだ。

では、もっと身近なものにも目を向けてみよう。
 


海外から長崎へ
衣類や玩具、生活必需品も舶来品!

その16●ぼたん(葡/BOT〜AO)
「丸山で取る胸倉はボタンがけ」
江戸時代、オランダ行き(出島出入り)の丸山遊女を唄った川柳である。この頃にはすでに日本語となっていた「ボタン」はポルトガル語。ポルトガル人宣教師の法衣の前襟部分に付いていたものだ。




その17●かっぱ(葡/CAPA)
そして、この宣教師達が身につけていた法衣のことを「カッパ」と言った。南蛮屏風に描かれたあの長いマントのような衣装のことだ(ちなみにマントもポルトガル語)。カッパ=合羽という具合に、時代劇に出て来る旅がらす姿が目に焼き付き、レインコートの日本語版と勘違いしていた方も多いのでは? ゆえに年配の方が「カッパ」と口にすると「死語!」などと感じていた自分がはずかしい。

その18●じばん(葡/GIB〜AO)
さて、衣類に絞るとまだまだある。「ジバン」とは、ポルトガル語で古代の胴衣のこと。着物を着る際に肌襦袢、半襦袢、長襦袢などを身につけるが、この「襦袢(じゅばん)」は、「じばん」の当て字と思われる。これを頭に入れて考えてみれば、確かに着物は元々身丈のものを着るのに、半分のものがあるというのは不思議。よくよく思えば異文化の香りがしてくる響きでもある。

その19●びろうど(葡/VELUDO)
「ビロウド」は、13世紀にイタリアのベネツィアで織り出された生地。日本へはやはりポルトガル人が持ち込んだ。その光沢の美しさとなめらかな肌触りは白鳥の姿に例えられ「天鵝絨」と当て字された。日本人を魅了した「ビロウド」は戦国武将をも虜に。羽織から帯地などの装身具からインテリアにまで用途も広がったこの生地は種類も豊富で、特に絹物のビロウドは「本天」と呼ばれた。ビロウドのことを「コール天」というのは「天鵝絨」の「天」が生きているのだ。

その20●かるた(葡/CARTA)
「かるた」といえば、「いろはがるた」や「百人一首」が一般的だが、最初に伝来したのは16世紀の西洋式かるた。4種48枚組の「うんすんカルタ」と5種75枚組の「天正カルタ」である。その伝来、成り立ちには諸説あるが、天正年間(1573〜1591)、日本人の間でこのカルタが大流行した。厳罰であった賭博的要素も当然ながら持ち合わせていたため、庶民は熱狂。そこで現代に通じる言葉も生まれた。「うんともすんとも言わない」---ポルトガル語で「ウン」は「第一」、「スン」は「最上級」という意味。黙り込んで白か黒か自分の意志を言わない様子に用いるこの言葉は、実は「どちらも譲らぬ第一級」という意味なのだ。また、「ぴんからきりまで」もカルタから生まれた言葉。カルタめくりという遊びの中で、ポルトガル語で「ピン」は「斑点」の略語で「一」、「キリ」は日本語の打ち切りの「切り」を意味し、本来は「はじめから終わりまで」という意味合いだったが、今では、「最高から最低まで」という意味に変化した。どちらも現代でも普通に使う言葉だけに、新鮮な話だ。

その21●しゃぼん(葡/SAB〜AO)

ずばり「しゃぼん」とは石鹸のことで、ヨーロッパ原産のサボン草の葉や茎に含まれたサポニンの汁が今の石鹸のように泡立ち、ヨーロッパでは昔から洗剤に用いられていたことから「さぼん」とも言われていた。ヨーロッパに比べ、風呂好き、清潔好きの日本人は、この「さぼん」に興味津々。将軍吉宗も長崎奉行所も平賀源内も製造法の調査に乗り出したという。


その22●らんどせる(蘭/RANSEL)
背負いカバンを意味するオランダ語「ランセル」が転訛してランドセル!伝来は幕末の頃、兵士の背嚢として輸入された布製のリュックのようなものだった。革製、箱型という原型は、明治20年(1887)、時の総理大臣・伊藤博文が皇太子(後の大正天皇)の学習院初等科入学時に特別に作らせ献上した時のものだ。一般に普及しだしたのは昭和30年代。この小学生のシンボルは、今でも型はさして変わらないが、色は色鉛筆並みにカラフルなものへと進化を遂げた!

 

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