今ではすっかり日本に定着し日常的に使われている言葉の中には、長崎を通過して全国に伝わったものが意外に多い。そんな舶来語のいわれや、成り立ちの経過などを調査! 前回の植物に引き続き、


ズバリ!今回のテーマは
「長崎発信の舶来語を探せ!」なのだ




まずは長崎を代表する舶来品の語源を検証

はじめに…。
長崎名物のひとつ「かすてら」。室町時代、南蛮船でやってきたポルトガル人から伝わったということはご存知の方も多いと思うが、さて、その語源を知っている人はどのくらいいるだろうか? 実は昔、ポルトガルのお隣のスペイン、イベリア半島の中央部に位置する標高600〜700mの高原地帯にカスティーリャ地方というのがあった。「かすてら」は「カスティーリャ地方のパン」という意味なのだ。

モノの名前に関しては鎖国期の長崎に伝わった、初めて物語とも関連深いものがある。「かすてら」の語源に代表されるように、舶来語には新たな発見が秘められているようだ。そんな期待を胸に、さっそく長崎の歴史たっぷりの舶来語の世界へご案内するとしよう。なお、中国渡りの舶来語については、和語と混在しきっているのが現状なので、今回は割愛させて頂くことをご了承願いたい。

 

海外から長崎へ
すっかり定着のあの食べ物も!

その1●こんぺいとう(葡/CONFEITO)
開港と同時に渡って来たのは、とーっても甘い砂糖菓子。宣教師ルイス・フロイスが献上し織田信長が初めて口にした南蛮菓子、金平糖だ。当時からすでに色とりどりだった金平糖を信長はとても気に入り、ガラス瓶に入れ眺めては口にしていたとか。ハッカの種を入れた金平糖は、ポルトガル人宣教師達ののど薬代わりだった。ちなみに長崎の伝統菓子、有平糖も「アルフェロ」。ポルトガル語が転訛したものだ。


その2●ぱん(葡/P〜AO)
キリスト教で大いなる意味を持つパンも、ポルトガル人宣教師達と一緒にやって来た。約四百年前に長崎で刊行された「日葡辞書」には「麦地」の文字が残るが、開港前の長崎港に突き出した岬一帯は麦畑で、宣教師達はこの麦を利用しパン作りの技術を伝授した。ポルトガル人達は市中に住んでいたことから、パン屋さんという商売もこの頃にはじまったと推測される。出島のオランダ人が食べていたパンは、長崎のパン職人が焼いていたものなのだ。


その3●びすけっと(葡/BISCOITO 蘭/BESCHUIT)
ビスケットも同じ。当時の呼名は「ビスコウト」。今のように甘いお菓子ではなく、どちらかといえば戦後の「カンパン」に似た船内保存食だったようだ。フロイスの『日本史』には「胃腸の悪い宣教師が煮炊きしたものを全然食べず、ビスケットと塩漬けのマンゴーと少量のぶどう酒で満足していた」とあり、当時のポルトガル人の常食品だったことがわかる。
その4●ぼうろ(葡/BOLO)
「ぼうろ」といえば、佐賀の名菓「丸ぼうろ」。もはや立派な日本のお菓子である。この「ボーロ」の語源は単純で、ポルトガル語で「お菓子」という意味。しかし、卵が使われたのは19世紀頃になってからのことで、伝来当初の原料は、白砂糖、麦粉、胡麻油、唐あくのみ。ビスケット同様、船員の堅い保存食だったという。


その5●てんぷら(葡/TEMPERERAR 西/TEMPLO)

全くの日本語だと信じて疑わない「天ぷら」も、元をたどれば南蛮渡来の料理。ただ、語源はポルトガル語やスペイン語(イタリア語)など諸説あり、その背景にはキリスト教の “時期”という宗教的意味合いが含まれているのだという。獣肉鳥肉を食べない潔斎日の時期に魚を食べることから「テンプラ=魚料理」。今ではまったくその意味は消え去り、日本食の代表となっているからオモシロイ。「長崎天ぷら」については、以下をクリック!

2009.10月ナガジン!特集『長崎伝統料理の魅力と謎』参照

その6●ばっていら(葡/BATEIRA)
……バッティラ弐艘に阿蘭陀人弐拾九人乗り申し候……『阿蘭陀風説書』より
このバッテイラとは小舟のことで、幕末の頃は主に伝馬船やはしけ船のことを「バッテラ」「バッテーラ」「バッテイラ」などと呼んでいたそうだ。しかし、「ばってら」といえば、さば寿司。なぜ、こう呼ばれるようになったかといえば、「その形が小舟に似ていたから」「昔、さばの押し寿司は舟型をした木枠に入れて押しをきかせていたから」という2つの説があるという。



その8●ぽんず(蘭/PONS)
「ポンズ」と聞いて思い浮かぶのは、当然ながら酢と醤油が混ざった調味料。しかし、語源はまったく別物で、どうも英語の「パンチ(PUNCHI)」のようだ。つまりは酒で、出島に出入りする長崎人もおそらくご相伴に預かったに違いない。オランダ生まれのジンにレモンやオレンジ、砂糖、シナモンなどの香料を入れた酒を意味する言葉が何故「ポン酢」に変化したかは未だ不明なのである。


その8●かん(蘭/KAN)

長崎の外国語学校 広運館に務めていた松田雅典が、フランス人教師が持ち込んだ「牛缶」に衝撃を受け、日本で初めてイワシの缶詰(オイルサーディン)の試作品を作ったのは明治2年(1869)のこと。その缶詰の「缶」は、英語の「CAN」ではなく、意外にもオランダ語の「KAN」だった。しかし、長崎の時代背景を考えると納得の話でもある。

 

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