時計造りの事始めも長崎?
地元ブランド「長崎時計」
 
江戸時代、輸入品を含め、優れた技術で製造された時計は「長崎時計」として全国に出回った。

永島正一著『長崎ものしり手帳』の「時計」という項目に以下の文面がある。

日本における時計は、慶長3年(1598)に名古屋の津田氏がはじめて製作したというのは誤りで、慶長6年(1601)に長崎のセミナリオでその製作を教えたのが最初であった。(参考:渡辺庫輔『長崎町づくし』)そして西川如見は、土圭(時計)の※二挺天符は長崎人の発明といった。

※棒天符が2本付いていて、明け六つと暮れ六つで自動的に切り替わり、昼は上の棒天符、夜は下の棒天符が動くもの。そのため、分銅の移動は毎日する必要がなく、季節の昼夜の長さに合わせて、24節ごと(15日ごと)にそれぞれの分銅の位置を移動する。



出島和蘭商館跡内『蘭学館』に展示されている二挺天符台時計。

ヨーロッパの最先端技術だった機械時計が東洋に伝わると、中国では基本、上層階級の鑑賞用的高級玩具にとどまったが、日本では不定時法に適応させる独自の改良が、職人よって行なわれ、櫓(やぐら)時計や枕時計、尺時計など、いわゆる和時計が誕生した。やぐら時計は、和時計のうち最初のものでオモリを動力とした。ヨーロッパのランタン・クロックが原型。枕時計は、和時計の中でも豪華版、大名時計と呼ばれ、ゼンマイを動力とし機械も精巧で美しい置時計だ。そして、尺時計。これはやぐら時計から発展したものでオモリの降下につれ、それに取り付けた指針で時刻を示す。オモリの降りる長さが1尺程度からこの名がついたが、尺時計は別名「長崎時計」といわれる。当時、長崎には南蛮渡りの時計が入ってくることもあり、製造技術も発達し時計師も数多くいた。武雄鍋島家の所有する時計は、長崎の時計師金子吉兵衛が行なっていたし、各地に散らばった時計師も、長崎でその製造法を学んでいた。

そんな長崎の時計師のなかでも特筆すべきは、御用時計師 幸野吉郎左衛門という人物。

幸野家は初代吉郎左衛門の父、良慶の時に日本初の商業カメラマン、上野彦馬などで知られる上野家から分かれた分家といわれている。この吉郎左衛門は、亨保14年(1729)、将軍家の香箱時計の修繕を行ない、御用時計師を名乗っていた。1952年に日本時計倶楽部が出版した渡辺庫輔『長崎の時計』には、この将軍家の香箱時計を修繕するほか、阿蘭陀時計の修繕を依頼されるなど、その技術を買われての実績が記されている。

寺町、晧台寺後山の最後部、風頭山といった方が分かりやすい絶景の高台に、上野彦馬が眠る上野家の墓がある。この付近一帯には江戸時代後期の地役人で砲術家の高島秋帆など長崎の著名人の墓が集中しているが、実はその中に、幸野家の初代から5代までの墓もある。代々、幸野家は、時計師として活躍した家柄だった。

ただし、これら時計を手にしていたのは、基本的に奉行所の役人や町年寄や乙名などの地役人。民衆が時を知るのは、いわゆる「時鐘」で、長崎では、「鐘の辻」と呼ばれる報事所が寛文5年(1665)に島原町一ノ掘に設置され、朝と夕方に鐘を打って時を知らせた(現・万才町NTT付近。その後、今籠町 現・鍛冶屋町崇福寺通り、豊後町 現・桜町に移転)。さらに明治になると正午の時報として大砲の空砲が「ドン」となるように。長崎では、明治36年(1903)、東山手エリアの高台、小田の原(現・どんの山)に長崎測候所が設置され、正午の観測の合図として空砲によって時刻を知らせた。


明治36年から昭和16年まで38年の間、市民に正午を知らせた大砲。写真は2台目大砲。

明治時代に活躍した時計師に島谷聰碩三郎という人がいた。彼は明治14年(1881)、第2回内国勧業博覧会に銀製の懐中時計を出品していたのだが、部品の一部が舶来品だったことから、出品を却下されたのだという。それだけ、舶来時計が長崎に入ってきていた証だろう。

それにしても、明治時代ともなれば、一般市民レベルで時刻を知る事は大切なこと。大半の人達が腕時計や懐中時計など自分の時計を持ち歩かない時代は、高い建物に掲げられた街中の時計台の時報を当てにしていた。一時期、各地の学校や役所、時計店などで象徴として時計台が多く築かれた。この地で活躍した時計師や、長崎に根付いた異国文化の流れからか、かつて、長崎には多くの時計店があったようだ。明治時代を写した古写真に残された、時計台。これは、現在の浜市アーケードの一角にあった「佐々木時計店」の時計台。左後方には、長崎で初めて大時計が掲げられた「被昇天のサンタ・マリア教会」跡地に建つ県庁がある。


佐々木時計の時計台が時代を象徴している。『華の長崎』より。
写真提供 ブライアン・バークガフニ氏

この時計台は、当時の人々にとって、時を知らせてくれる大事な存在だったに違いない。実は近年まで、浜市アーケードの中にも時計台が存在した。明治8年創業の老舗、岡本時計店の屋上の時計台だ。昭和44年、ビル建設の際に設置されたが、全覆いのアーケード仕様となってからは長い期間、通りを行く人々の目に触れることができなくなっていた。近年、ついに故障のため撤去。時計台も解体されたという。刻々と流れる長崎の時を刻み続けてきた時計台もこれで姿を消してしまった。

今や一家に数台は当然、腕時計さえ一人数個の時代となった。携帯電話などにもデジタル表示され、時はいつの頃からか記号として認識されるようになった感もある。今回紹介した、かつて長崎に運ばれたり、この地で誕生したりした時計に思いを馳せると、同じ時を過ごすのならば、無駄無く、でもゆったりとした気分で、充実した時間を過ごしてゆきたいものだと思わされる。

〈3/3頁〉
【最初の頁へ】
【前の頁へ】