長崎には歴史を彩る様々な文化同じように、その時代時代に「時」を刻んできた数々の時計の存在があった。かつて存在した夢のような時計から、現存する教えの時計、はたまた、名高い時計師の存在まで…。振り返れば、尊いのは何より時間。


ズバリ!今回のテーマは
「現代の意味する「時」とは別物! ロマン感じる長崎の時計話に迫る!」なのだ



 
日本初の日時計は出島に?
羽のついた砂時計の意味は?

時を刻む時計。現代において時計はあらゆる場所にあり、また、身近に携帯する生活必需品となっている。まずは、この時計の成り立ちの流れを知っておきたいところだが、それより何より、人々にあまり“時間”という概念がなかったことを思い浮かべなければならない。そんな遠い昔、人々は自然の力に基づく方法で時を計測していた。

たとえば日時計や水時計、そして砂時計。

【日時計】
太陽によってできる物体の影を使って時刻を知る日時計。これは日中で、しかも晴れたときにしか使えないことを除けば、誰でも見たり使ったりできる身近な時計。紀元前3000年古代エジプトで使われていて、起源はさらにそれ以前に遡るという。実は、長崎には日本初の日時計がある。その設置場所は出島オランダ商館跡。明治3年(1766)に赴任した商館長ヘルマン・クリスチャン・カステンスによって出島の花園に石造日時計が設置された。現在、実物の展示はしておらず、花園があった薬草園跡に複製が設置されている。日光の影により、朝6時から夕方6時までが計測可能。真ん中の南北を示す線が12時となる。ただ、商館長などはすでに時計を持っていた時代に設置されたこの日時計、実用していたのかどうかは疑問だ。


復刻された出島の石造日時計。 前面に刻まれた「H・C・K」は 商館長のイニシャルだ。


かつて薬草園にあった実物の日時計の表面にも、確かに放射状の線があり、日陰棒を立てる穴も空いていた。

【水時計】
日本書紀の中にある天智天皇の10年4月25日に、始めて漏刻(水時計)を新しい台に設置して鐘鼓を鳴らして時を告げたとの日本書紀の記述が、日本における最古の時報の記録。太陽暦に直すと西暦671年、6月10日となるので、大正9年、この日を「時の記念日」と定められた。漏刻とは、水時計のことで、水が一定の速度で水海とよばれる壷に貯まり、水海の水位から時刻を測る時計のこと。天智天皇の漏刻は、官僚制の維持管理の手段として活用された。

【砂時計】
砂時計は、起源は古代ギリシャやローマ、また中国ともいわれているが定かではなく、11世紀頃には航海用の時計として使用されていたともいわれていて、大航海時代、地球一周を目指したマゼランが、18個の砂時計を船に積み込み、使用したという記録が残されているという。パソコン上で、待ち時間のアイコンとして使用されるなど、砂時計の存在は、今でも“時間という概念のシンボル”として健在しているようだ。また、 ヨーロッパで砂時計は死の伝統的シンボルで、墓石の意匠としてよく用いられるのだそうだ。そういえば、稲佐悟真寺国際墓地、オランダ人墓地に眠る出島オランダ商館長、ヘンドリック・デュルコープの墓石にも羽が生えた砂時計の図柄が。命の刻限が次第に減っていくことを意味する砂時計に羽を付けることで、永遠の命を意味したのだろうか。


デュルコープの墓石に刻まれた砂時計は、すでに風化して残念ながら確認できない。

原始的な方法で時を計測していた時代、それでも面白いことに、日時計は万人が利用できることを、水時計は時間支配を、そして砂時計は航海などを目的にとTPOが分れていたことが伺える。

今でこそ「時を計る=時計」が当然となっているが、実は時計の語源は、紀元前の中国で用いられた緯度測定器「土圭(とけい)」(棒を立て、その影の長さを測るものが粘土で出来ていたので土圭と呼ぶ)の当て字なんだとか。ほかにも、この「とけい」という音に対して、斗鶏、自鳴鐘、時計、斗景、土計、時辰儀などという字が当てはめられた。

日本における時計のはじまりは、古代と呼ばれるいわゆる飛鳥、平安時代は、上記の水時計(漏刻)、日時計、※時香盤が使われていて、朝廷では漏刻を中心に時間支配を行なっていた。鎌倉〜戦国時代になり朝廷の権力が弱まると、日時計、時香盤によって、今度は地方ごとの時間を使っていたと考えられている。
※ 香を線状に置いて、その燃える速さから時間を把握する道具

そして、キリスト教の宣教師ザビエルによって初めて日本に機械式の時計が伝えられる。1551年、大内義隆に機械時計を献上し布教の許可を得た時のことだ。その後キリスト教が広まるにつれ機械時計が持ち込まれるようになる。もちろん、長崎にも。ほかに伝来した機械時計で有名なものは、慶長11年(1606)、西洋より徳川家康に贈られた「斗景」。現在、静岡県 久能山東照宮に所蔵されている1581年製と伝わる家康公使用のこのスペイン製枕時計は、日本ではもちろんのこと、世界でも現存する機械時計として最古のものだという(国指定重要文化財)。

さて、江戸時代になると、ヨーロッパから伝来した定時法の機械時計に対し、日本人技術者によって、時間を「子、丑、寅」と十二支で表す不定時法に合わせた「和時計」が考案された。そして鎖国時代に突入することで、この「和時計」時代が長く続く。


出島和蘭商館跡内、拝礼筆者蘭人部屋を利用した『蘭学館』には、一挺天符尺時計と二挺天符台時計、二つの和時計が展示されている。

そして、近代。明治になると、明治6年の定時法移行後に、機械式懐中時計が少しずつ普及。第一次世界大戦後から腕時計が主流となっていく。1900年初頭、欧米ではまだ懐中時計が主流な時代、1902年(明治35年)、日本は腕時計が大ブームに。腕時計化は、欧米よりかなり早く、日本人の新しい物好きがあらわとなった。

〈1/3頁〉
【次の頁へ】


【もどる】