遠藤周作が愛した
善長谷教会のルルド

この教会からの風景をひどく愛した人がいた。作家の遠藤周作、その人だ。彼の代表作『沈黙』の舞台背景は、隠れキリシタンとキリスト教信仰の町、長崎。その後、同テーマのもと描いた『女の一生 一部・キクの場合』に、その善長谷教会は登場する。


善長谷教会のルルド


善長谷教会

深堀地区にある標高350mの城山。ここは今から約700年昔、深堀地区の地頭職に就き、治めていた深堀氏の祖にあたる鎌倉御家人出身の三浦氏が居城を構えていた場所だ。善長谷教会があるのが、この城山山麓の大籠町(おおごもりまち)。目前には遮るものが何ひとつない大海原の大パノラマ。遠藤周作が“錫のような海”と表現した、きらめく小波がたゆたう海を見下ろすようにこの教会は建っている。

教会下に辿り着くと、向かって右側に下へと延びた石段がある。鬱蒼と茂る木々に覆われたその空間には、日常から切り離された神聖な空気が漂っている。いくつかの手作り椅子が置かれた正面、ちょうど聖堂の建つ地の岩壁に聖母マリア像と、マリア像に向かってひざまずき祈る少女・ベルナデッタの像はあった。

案内板
聖母マリアの表情はとても柔らかく、胸の前で手を合わせ、正面に向かってただ静かな祈りを捧げているかのようだ。

聖母マリア像

竹林に囲まれているにも関わらず、不思議とこの場所だけ日が差し込むようになった、まさに聖地という印象の地。このルルドの建設が始められたのは、ルルドに聖母マリアが出現して100年を迎える前年の昭和32年(1957)。当時善長谷教会は中町小教区の巡回教会だったことから、中町教会の古川神父と信徒さん、延べ3700人がその喜びと祈りを込めた奉仕を行ったという。その中心になったのは造園業を営んでいた中町教会の信徒である田中氏。一見、聖堂裏の自然な岩壁をうまく利用しているかのように見えるが、実は多くの岩などを持ち込み、手を加えていることを知ると、またそこに信仰の強さを感じることができる。冬は寒気に耐え、夏は炎暑にやかれて1年半余り。翌昭和33年9月に完成した。


神聖な空気漂う空間

周囲には樹木が覆い茂るこの静かな山里にこの教会が建てられたのは、明治28年(1895)。創建当時は木造だったが、昭和27年(1952)に再建され、幾度かの修復が行われ今に至っている。この地に教会が建てられた背景には、隠れキリシタンの存在があった。隠れキリシタンの甚介の子ども、佐八など6家族が旅芸人を装いながら西彼杵郡三重郷樫山からこの地を訪れ、ここを隠れ家として信仰を貫いた。彼らがこの地に移り住んだのが文化元年(1804)のこと。計算すると、聖堂が建てられるまで、実に90年もの時間が流れている。この聖堂そのものが、この地で受け継がれてきた信仰の証。

もともと「善長谷」という地名の由来は深堀の菩提寺6代当主、賢外普問和尚がこの地を厳しい坐禅の修行の場とし、ここで悟りの境地に至ったことから「禅定谷」となり、それが転訛したという説があるが、スペイン語で異教徒のことを「ゼンチョ」と発音することから、これが語源になったともいわれている。

善長谷教会の信徒達は、明治維新後に信仰の自由が許されると宣教師の呼びかけに従い、カトリックの教会に復帰する人もいたが、潜伏したままで西彼三和町岳路へ分れて移り住んだ方々もいたという。今でも教会の周辺には教会の周辺には現在もその子孫が残り、全員がカトリック信者となってその意志を受け継いでいる。

空と海を茜色に染める絶景が望める夕刻、教会前のタブの木に吊るされたアンゼラスの鐘が毎日信徒らによって打ち鳴らされ、この谷にこだまする。


教会前のタブの木


●長崎駅前からのアクセス
バス/長崎駅前東口バス停から長崎平山台団地行きに乗車し、終点で下車。長崎コミュニティバス晴海台団地行きに乗り継ぎ、大籠公民館前バス停下車。徒歩20分。
車/長崎駅前から約25分。

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