長崎の伝統を石文化に見る!


石に囲まれた長崎の石材店                 
町中に敷き詰められた石畳、高台の家に続く石段、中島川に連なる石橋群。長崎は“石”ととても縁の深い町でもある。かつての寺町(筑後町周辺)、現在の寺町のどちらにも通称“弊振坂(へいふりさか)”という名の坂があり、その坂を登ると石切り場だった。“弊振り”の語源は、石を運ぶ際、指揮者が御幣、つまりお金を見せて労働者にやる気を出させたことに由来する。建物や町造りなど、古い長崎の歴史と伝統が刻み込まれている石。その中でも一番身近な存在はなんといっても墓地だろう。唐人墓をはじめとした外国人の墓碑もだが、長崎人の墓には他県には見られない独自の伝統文化があるのだ。


観光名所を復元する大仕事          
昭和57年(1982)、長崎の母なる川・中島川に架かる眼鏡橋をはじめとした石橋群が長崎大水害で流失した。歴史と文化が詰まった、この長崎を代表する観光名所の修復工事を一手に任された横尾石材工業は、江戸末期の嘉永2年(1858)創業の老舗店。


横尾石材工業7代目・横尾寛さん


現在の眼鏡橋

「石橋の修復は、かつての磨屋小学校(現諏訪小学校)に実物大の型紙を用意して先人達が積み上げた石のサイズをひとつひとつ確認しながらの作業でした。その構造の緻密さに驚かされましたね。同じく大水害で流失した長崎県の名勝・滝の観音に架かる2つの石橋も、かつての写真をもとに一からの修復でした。」と7代目の横尾寛社長。

加工販売、設計施工、墓地造営に建設石材の手配など石材店の仕事は幅広く、古くから多くの仕事を手がけてこられた。例えば町中で見かけるモニュメント。グラバー園内の“西洋料理発祥の地記念碑”や新しいところでは丸川公園に高くそびえる“長崎開港先覚者之碑”、また諏訪神社境内にある平和祈念像の作家で知られる北村西望氏作“神馬(しんめ)”の台座もそうなんだとか。

また、観音様やお地蔵様などの石仏は、個人や団体からの製作依頼も多いんだという。
「有喜(諫早市)の漁港組合からの依頼には、雨乞いの神様で、漁業や水産加工業守護の功徳がある、頭に龍が乗った“八大龍王”を制作しました。表に同じ物を展示していますよ。」



長崎開港先覚者之碑

独自の墓文化の立役者は石職人

さて、そんな石材店の仕事の中でも長崎の伝統となるとやはり異文化、特に中国に強い影響を受けた墓所に注目したいところだ。

「土地によっても、また時代によっても特色は違ってきますが、墓所に関して特に勉強したわけではなく、仕事をしていく中で“墓相学”を身につけていきましたね。長崎の場合は中国からの風習が伝わっていますよね。墓所が広く親戚縁者の集いの場であること、墓石に刻まれた文字が金であること、そして何より墓の上座にその土地を守って下さっているとされる“土神様(つちがみさま)”が祀られていることです。」

土神様
昔、長崎では寺院の後山にあたる眺めのいい山の斜面が墓所となった。しかも今と違い好立地の分譲霊園より、より高く交通の便が悪い場所にこそ高貴な人が眠っている。それはまるで生きている者より故人のことを思いやるかのように……。そのため、対馬産の小さくて足腰の強い対州馬が資材を運ぶのに多用された。しかし、石材は馬に担がせるわけにはいかない、当時の石材店の人々はかなり苦労したに違いない。

「今はキャタピラーなどがありますけど、昔は必ず偶数の頭数で坂の上まで運んでいましたね。今でも細い道などでは人力ですよ。」


対州馬
土地に根付いた文化を熟知し、山に囲まれた立地に対応する長崎の石材店。他県とは異なる長崎ならではの文化をこれからも継承していってほしいものだ。 



■横尾石材工業
 麹屋町6-15
 095(822)5718


八大龍王
有喜の漁港と同じ“八大龍王”が寺町通り、横尾石材工業の興福寺側に置かれている。


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【長崎の伝統を食文化に見る】
【長崎の伝統を石文化に見る】
【長崎の伝統を菓子文化に見る】
【長崎の伝統を薬文化に見る】