長崎の伝統を薬文化に見る!

長崎は薬の流通元? 
 
日本の薬の歴史は大部分を植物性の漢方薬が占めていて、もちろん長崎も同様だった。そのためこの薬の原料である薬草木を育てる薬用植物園が重要な役割を果たした。
長崎では元禄3年(1690)に来日したケンペルが出島の敷地内に薬園を作ったが、実際はそれ以前に長崎代官・末次平蔵が密貿易で入手した珍しい草木やその種子を十善寺地区に植えたのが始まりだ。その後、末次家が没落すると幕府が没収し御薬園として継承(延宝8年(1680))。場所は立山役所内(長崎奉行所)、小島郷十善寺(天草代官所跡)、西山郷(松森神社石垣斜面)と転々とした。江戸中期には薬草木の需要が高まったため、8代将軍吉宗は国内の有用植物を探索したり、外国産の種苗を入手して増殖させたりしたが、その受け入れの窓口を果たしていたのが長崎の御薬園。受け入れた苗や種子をここで一旦栽培した後、江戸の小石川や駒場の御薬園に送っていたのだという。ケンペル、ツュンベリー、シーボルトなど、出島オランダ商館に派遣された医師や科学者によってもたらされた西洋の医薬学や植物学が日本の本草学と薬園の発達に大きな影響を与えたことも重要なポイントだ!

西山御薬園跡

江戸時代の薬をディスプレイ!                
さて、そんな日本全国に多大な影響を与えた薬草の流通元である長崎には、地元の製薬会社も多い。元禄7年(1694)創業、310余年の歴史を誇る老舗の鍵屋薬局もそのひとつだ。この屋号の“鍵屋”は、創建当時、薬の製法技術は錠前の鍵の製法技術が秘密にされたことにならい、秘密とされたことから殿様より賜った屋号をそのまま踏襲している。現在、店を営むのは15代目の福地弘充さん。長崎さるく博'06から引き続き、さるく見聞館「くすり見聞館」の館長としても活躍中のご主人。今年は、長崎くんちの踊町・麹屋町の川船で根曵(ねびき)として、また目玉である網打ち船頭の指導者として活躍されたため、10月中旬の取材時は、気合いの入った凛々しい丸刈り姿だった。広い店内には、今では動物保護法で入手困難となった犀角やジャコウ、サルの頭の黒焼きなどの動物性生薬の標本や、べっ甲細工の天秤や家伝薬の調合製法等が記された古書、昔使用されていた薬品、小物などが博物館さながらにディスプレイされている。


鍵屋薬局15代目・福地弘充さん


生薬の標本  

「現在は諸事情で発売を休止していますが、鍵屋では元禄時代から“肥児丸(ひにがん)”と漢方薬を販売していました。」

そう! 江戸の昔から長崎で漢方薬といえば鍵屋ときたもんだ!てな感じで、鍵屋といえば“肥児丸”! この薬は紀州藩出身で長崎に在住していた立石開祖が中国漢方古書を元とする“回春肥児丸”を日本人の体質に合わせ処方を改善したもの。その後寛保年間にその製法を当時漢方医だった森久二郎が引き継ぎ、“鍵屋肥児丸”の名が付けられ、小児のかんむし、胃腸に効くと評判の漢方薬として代々伝えられてきた。

肥児丸セールスマンはチンドン屋               
さて、ときに歌舞伎の演題にも登場する「藤八五文」の薬売り。江戸時代、長崎の薬が万病に効くともてはやされた。「藤八五文」も、もとは長崎の岡村藤八という人が2人一組で「藤八・五文・奇妙」という掛け合いの売り声のもと、一粒五文で売り歩いていたオランダ伝来の丸薬だった(藤八拳(東八拳)の起源)。
実はこの肥児丸も江戸時代の薬売りを彷彿とさせる宣伝マンによって売り出された。戦後まもなくまだテレビも普及していない時代、その頃でも珍しいチンドン屋が肥児丸のPR方法として採用されたのだった。この斬新な宣伝方法は評判となり、市民に大変親しまれていたそうだ。長崎では初めてのチンドン屋として三味線を弾き、飾り傘を背中にさして肥児丸を売り込んでくいた宣伝マン、伊藤辰二郎さん。今でも当時の薬売り風景を偲んで足を運んでくれるお客様もいるとか。

「漢方薬は天然素材。一人一人違った、自分の症状に合った薬を作ることができるので、気軽に相談に来てほしいですね。」

漢方薬が改めて見直されている現代。漢方薬の宝庫だった江戸時代の長崎と、当時を偲ばせる昭和の薬売り。鍵屋薬局は、このえも言われぬ風情を今に伝え、今も頼れる存在としてそこにある頼もしい薬局なのだ。



■鍵屋薬局
 八幡町5-2
 095(824)4070
 9:00〜19:00(土曜〜16:00)
 日祝日休



漢方薬
その中央には、漢方薬のことならおまかせとばかりに、袋詰めされた大きな漢方薬などが陳列されている。


〈4/4頁〉
【長崎の伝統を食文化に見る】
【長崎の伝統を石文化に見る】
【長崎の伝統を菓子文化に見る】
【長崎の伝統を薬文化に見る】