■シーボルトと慶賀

シーボルトの日本研究の片腕となり、彼が出島に滞在した約6年間、ほとんどシーボルト一人のために自分の画才を提供し膨大な作品を描いた慶賀。シーボルトが慶賀に与えた影響に迫る!

◆シーボルトの功績について
●ここでシーボルトについての予備知識!
フルネームはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトでドイツ人。
大学で医学をはじめ、動物学、植物学、民族学などを学んだ彼は、外科、産科、内科の博士号を取得して大学を卒業して開業したが、どうしても自然科学への関心が断ち切れず、「これまであまり調査されていない地域の研究がしたい!」と、周囲の協力を得てオランダ領東インド陸軍の外科少佐に任命され、オランダの東洋貿易の中心地であるバタビア(現在のインドネシア共和国ジャカルタ市)へ。そこで自然科学への深い知識と探究心を認められ、貿易先である日本の長崎・出島にあるオランダ商館の医師として日本へ渡ることになる。1823年(文政6年)、シーボルト27歳の時だ。彼はオランダ商館員の健康管理にあたりながらオランダ通詞達と交流を深め、日本についての知識を得たという。「すごい博学の医者が来る」となりもの入りでオランダ商館医として迎えられた彼はとても優遇され、商館長の働きかけにより出島以外で活動することを長崎奉行所から許されたり、薬草の採集に出かけたり、日本人の診察を行なっていたりしたので、出島以外でもシーボルトの評判は広まり各地から大勢の人(門弟)が集まった。そして日本人女性・お滝と結ばれ、文政10年(1827)に娘のお稲が誕生した。日本の調査・研究を進めると共に、日本人の医師に医学の講義を行なうため、文政7年(1824)、長崎郊外の鳴滝にあった民家を購入(鳴滝塾)。その後5年の任期を終えて文政11年(1828)に帰国することとなった8月、彼が乗船することになっていた船が、長崎を襲った暴風雨により長崎港内の稲佐の海岸に乗り上げて出航が延期。その間江戸では、幕府・天文方の役人高橋景保がシーボルトに日本の地図などを渡した疑いで幕府に捕らえられ、取り調べを受けた。そして11月、シーボルトは長崎奉行所の命令で、地図ほか禁制品を没収され、出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けることになった。彼は多くの協力者に罪が及ぶことを恐れてその名前は一切あきらかにしなかったが、シーボルトの門弟や友人、関係した役人までもが取り調べを受けることになりシーボルトは文政12年9月(1829)、国外追放を申し渡された。これがいわゆるシーボルト事件だ。

シーボルトが残した業績は数多くあるが、大部分は国外退去後にまとめられたもの。膨大な日本研究を『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などにまとめて出版し、広く世界の国々に日本を紹介している。現在、シーボルトが収集した日本のコレクションの多くはオランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている。また、シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)横に隣接するシーボルト記念館にはその本物そっくりのレプリカやパネルが展示されているので、是非足を運んでみよう。

そして、そのシーボルトが出版した『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』に描かれているのが、シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀慶賀の作品だ。


ナガジンバックナンバー:ミュージアム探検隊「シーボルト記念館(シーボルト宅跡)」



『若きシーボルト先生と其従僕』
/長崎歴史文化博物館蔵

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀
シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め
慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係

前ページで紹介したように、慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。

●ズバリ!兼重先生にクエスチョン!●
Q.兼重先生が推測する範囲で、慶賀とシーボルトとのコミュニケーションはどういったものだったと思われますか? 

A.通詞を介してのコミュニケーションだったと思われますが、作画については、通詞なしにお互いに理解し得ていたのではないかと思います。シーボルトの研究熱意に慶賀も熱意を持って応えるといった信頼関係だったと思いますよ。

 
コラム★長崎で鑑賞できる慶賀作品

蘭船を眺めるのはシーボルト?

待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?



『唐蘭館絵巻(一)蘭船入港図』
/長崎歴史文化博物館蔵

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