■慶賀が描いた絵と、その絵の特徴

慶賀が遺した作品に見られる特徴に着目! シーボルト関連の仕事に見られる記録的、科学的性格の写実性が強い作品と、その他の仕事に見られる慶賀でしか描けなかった作品群。彼の成長と多様性に迫る!

◆出島出入絵師ならではの写実的作品
慶賀の作品で最も目にする機会が多いのが、『唐蘭館絵巻』。慶賀が生きた時代の長崎は、出島、唐人屋敷を擁したまさに長崎の貿易時代。出島や唐館(唐人屋敷)の暮らしぶり、貿易船の入港風景など、ある一瞬を捉えたスナップ写真的な写実的風景画は、出島出入絵師である慶賀しか描けなかったものだろう。
ところで、ライデン国立民族学博物館の日本部絵画収集品は、ブロンホフ(商館長)、フィッセル(商館員)、シーボルト(商館医)によって収集されたものが中心で、なかでも慶賀の作品がその大部分を占めているという。それらを主題別に分けると“1長崎歳時記 2人の一生 3職人尽し 4生活風俗点景 5神社、仏閣 6日本の風景 7図譜”に分類することができ、全て“日本人の研究”という同一の課題に取り組んだものだという。時代的にいうと、ブロンホフ、フィッセル、シーボルトの順。“人の一生”を例にあげ3シリーズを比較すると、ブロンホフ・シリーズの特徴は、1つ1つの事象の描写は説明的でわかりやすいが、人物の描写などは平面的、明暗法による立体表現に欠けているなど、近代的な意味での写実とはいいがたいという。一方、フィッセルのシリーズは、他のシリーズと比べ、すべて落ち着いた色調で整えられた彩色においても、本シリーズにのみ「慶賀」の朱印が捺されていることからも、慶賀が1点1点を1つの絵画作品として描こうとした意気込みが感じられ、最も完成度が高いといわれている。そしてシーボルトのシリーズは、構図的にもほぼ同一のため、このフィッセルのシリーズを慶賀自身が写したものと推測されている。しかし、明暗法による立体的表現を意識した陰つけなど、彩色によって大きな違いが見られるという。このヨーロッパ的な明暗法は、おそらくシーボルトの助手兼絵師として渡来したオランダ人デ・フィレニューフェの影響だったと考えられているそうだ。ともあれ、これら同一主題の慶賀作品を比較してわかることは、慶賀の写実的描写の進展には、シーボルトの指導が大きく影響していることだ。

『唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図』
/長崎歴史文化博物館蔵





『唐蘭館絵巻(蘭館図)(八)宴会図』
/長崎歴史文化博物館蔵


『唐蘭館絵巻(唐館図)龍踊図』
/長崎歴史文化博物館蔵

『正月図』/長崎県美術館蔵

◆真似て自分のモノにする!貪欲絵師

出島出入絵師の特権を得ていた慶賀は、西欧の人や文物とも接する機会が多かったことは確実。それゆえに慶賀の作品には、それらが反映されている。そして、その特定できる西欧の画家の名前も明らかになっている。ルイ・レオポルド・ボアイ。慶賀とほぼ同時代を生きたフランスの画家・版画家だ。『蘭人絵画鑑賞図』という慶賀の作品があるが、これは、ボアイの原画『絵画愛好者たち』(大英博物館蔵)というタイトルの淡彩のリトグラフを写したもの。現物を身比べると、おっと!構図も表情もそっくり。しかし、色彩は原画とはまったく違って濃厚な彩色で、慶賀の個性を生かした作品に仕上っているのだ。また、葛飾北斎の“北斎漫画”に関しても同じように模した作品を残している。慶賀は、シーボルトに同行した江戸参府で、葛飾北斎と直接出逢った可能性があるのだそうだ。ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションの中には、15点の北斎筆水彩画が含まれていて、それらは慶賀がシーボルトの要請で描いた『日本』に収められている挿図にも用いられているものと同様の古オランダ画紙に描かれていたため、北斎と慶賀が直接接触したことが推測されているのだ。ライデン国立民族学博物館に収蔵されている慶賀作品の中には、日本の風俗を描いたものが多数あり、その中の『喧嘩』と題された作品は、“北斎漫画”から3組の人物を借りて、またはそれらをヒントに巧みに構成されたものだという。ボアイに“北斎漫画”。人間の姿態や表情を理解し、貪欲なまでに自分の作画に取り入れた慶賀。単に模倣に終わるのではなく、常に自分自身の画法として自分のものにしているところが、慶賀の素晴らしさだろう。

◆個性がない個性こそ慶賀の武器
現在では目にする機会もほとんどないが、長崎には『お絵像さま』と呼ばれる肖像画がある。これは長崎における先祖崇拝の一つの形式で、家内に祖先の画像を保持する風習だ。
●ここで『お絵像さま』に関する予備知識!
長崎の『お絵像さま』は、肖像画の一種で、しかも極めて私的な俗人の肖像画。平日は蔵の中に収めてあり、正月の七五三(旧暦)、2月の節分、3月の雛節句、5月の男節句、7月の盆祭、9月の諏訪祭礼(現在は10月だが長崎くんちの3ヶ日)に『お絵像さま』の掛け物をかけ、家内一同礼拝するのが通例で、その際、例えば正月であれば、膳や椀にはどれも家紋が描かれた屠蘇・雑煮・黒豆・数ノ子など、必ず行事毎にそった料理をお供えしていたという。旧家では、紋付の羽織を着け、『お絵像さま』の前で祝酒や祝膳の前に座って家族が楽しい食事をする、というように、元禄時代から明治初年頃まで長崎ではこの『お絵像さま』を中心にした先祖崇拝の形ができあがっていたという。

慶賀の肖像画的作品は、昭和のはじめまで相当数残されていたが、戦災焼失したり、戦後の混乱で行方不明になったり、またはその性質上、個人宅に秘蔵されていたりしているため、実際に見る機会は少ないのが現状だ。町絵師であった慶賀にとって、この“お絵像”の注文が最も安定した収入源であったと考えられている。慶賀が描いた“お絵像”で最も特徴的なのは“顔面描写”。
また、慶賀の“お絵像”を含む肖像画的作品は、シーボルトのための仕事をした時期をはさんだ作品で、特徴が異なることから前期、後期に分けられている。その特徴はというと、前期は像主に似せて描くという写実ではなく、像主の特徴を誇張して描くという点。そして後期は描線がほとんどなく、陰影のみで立体的に描出している点だ。この描法は、黄檗画からもたらされた立体表現法だそうで、慶賀の場合はそれよりもさらに一歩進んだ合理的な陰影法による真の洋画的技法なのだという。シーボルトの仕事を重ねることによってさらに綿密な観察眼と洋画的描写力に磨きをかけ、また、いかに像主に似せるかということに力を降り注いでいたようだ。その技法は、一定の枠にとらわれず自分が目指す写実に適したものは、新旧問わず自由に取り入れようとした姿勢に基づくもの。その作画態度と、それを可能にしたのはやはり、慶賀が“長崎”という自由の雰囲気のある土地で活動した画家だったからといわれている。唐絵目利という拘束に縛られることない町絵師・慶賀は、自由に、そして貪欲に多くの画法を取入れながら注文に応じて多様な作風の仕事をした。そして膨大な数の作品を後世に残したのだ。


『永島キク刀自絵像』
/長崎歴史文化博物館蔵

●ズバリ!兼重先生にクエスチョン!●

Q.下世話な話ですが、生涯、慶賀が手にした画料は現在でいうとどのくらいになるのでしょう?

A.私の著書『シーボルトと町絵師慶賀-日本画家が出会った西欧』のP34の「慶賀の画料」を参照していただくとわかりますが、平均した1図の画料が12匁(もんめ)で、これを現代の20,000円として概算してみましょう。慶賀の生涯における全作品数は不明ですが、2000点+α×20,000円=約5,000 万円(?)ってところでしょうか?
 
コラム★長崎で鑑賞できる慶賀作品

ボアイ版画を取り入れた西洋画

慶賀は、ボアイ版画からの発想で、『蘭人絵画鑑賞図』の他にも数点の作品を残している。そのなかの1点が『長崎瀉血手術図』。この図は、シーボルトの手術の様子を写したものと考えられ、被術者の痛苦に耐える表情描写に高い評価を受けていた作品だが、実はこの表情もボアイの『しかめ面』(大英博物館蔵)と題された一枚から借用されていることがわかったのだという。写実的な絵画が要求される中、外国人医師による外科手術という場面は、実際に観察し構成したものだろうが、手術というテーマを最もよく表すポイントが、被術者の痛苦に耐える表情だと考えた慶賀は、ボアイ版画のこの表情が最適だと判断! やはり、この表情が決め手のインパクトのある作品に仕上っている。


『長崎瀉血手術図』
/長崎県美術館蔵

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