■ナガジン!バックナンバーから
これまでナガジンに登場した人物の中から、様々な個性を持つ長崎に眠る人々をピックアップ!

長崎に眠るヨーロッパ人日本最古の墓
●ヘンドリック・デュルコープ(出島オランダ商館長)/稲佐悟真寺国際墓地●


オランダ人墓地

煉瓦造りの塀に閉ざされた門扉。日本人墓地に隣接した稲佐悟真寺国際墓地の一画にあるオランダ人墓地は、ひと際静寂に包まれている。その中に、日本にあるヨーロッパ人の墓の中でも最も古い墓がある。彼の名前はヘンドリック・デュルコープ。彼は東インド会社の出島オランダ商館長だった人物。デュルコープは2度に渡り副商館長を、その後商館長を務めていた。しかし日本へ向かう航海の途中、急病のため死去。遺体は密封保存され、8月15日に長崎に到着するや悟真寺のオランダ人墓地へ運ばれた。彼の葬儀は盛大に執り行われ、オランダ人の同胞達は喪服で正装して参列した。埋葬後、墓前で仏教の僧侶が経を唱えたが、これはその後恒例となり今日まで至っている。墓碑にはオランダ語で頌徳文が記され、羽のついた砂時計や花輪の中に描かれた小さな十字架模様と子羊などの装飾画も刻み込まれていたが、今では風化してハッキリとはわからない。当時オランダ人は宗教活動を一切しないというのが出島での条件だった。それでも十字架を彫らせ、黙認したということは驚くべきことで、当時の長崎の人の彼への敬意の表れと同時に長崎人の西洋人に対する理解がうかがえる。

遠い昔のロマンスを偲ばせる墓
●グスタフ・ウィルケンス(貿易商人)/稲佐悟真寺国際墓地●


ウィルケンスの墓


ウィルケンスの墓石

同じく稲佐悟真寺国際墓地に、亡くなった恋人のためにその墓を建てた丸山芸者の名前が刻まれた墓がある。稲佐山に向かって煉瓦塀が続く坂段を上ると両側に無数の中国人墓地が広がり、右手の中国人墓地の上段の奥に入っていくと、ポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人らが葬られた稲佐国際墓地がある。この中で一際目を引くその墓の主はグスタフ・ウィルケンス。彼はドイツ系アメリカの商人で、開港後の安政6年(1859)に長崎へ来航。外国貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者となり、明治2年(1869)1月、37歳の若さで亡くなった。彼は死ぬ時、自分の財産の全てを丸山遊女・玉菊に与えた。玉菊はその財産の大半を使い、このケタ外れに大きな墓碑を建てた。確かに側面に「津国屋内 玉きく」の文字が刻まれていた。玉菊は彼を深く愛していたため、残りのお金も貧窮している人達に与え、玉菊は、最後は乞食のように暮らしたという。灯籠の台に丸い舵取りを象った中に十字架を入れた立派な墓碑が、現在もウィルケンスと玉菊との遠い恋物語を語っている。

責任を痛感して遺書を残し自害
●81代長崎奉行・松平図書頭康平/大音寺●


松平図書頭の墓


葵の御紋

大音寺から寺町にある晧台寺へは、本堂に向かって左、墓地の中を通り抜けることができる。その道筋、石の扉付の上に葵の御紋が入った墓を発見! これは長崎奉行で二千石の旗本だった「松平図書頭(まつだいらずしよのかみ)」の墓。フェートン号事件の責任をとって自殺した人物だ。フェートン号事件とは、文化5年(1808)8月15日、当時ナポレオン戦争でオランダと交戦状態にあった英国軍艦フェートン号艦長・ペリュー大佐は、オランダ国旗を掲げて長崎港に不法侵入。検視付オランダ商館員2名を人質にとって燃料、水、食糧等を要求した。その時の長崎警備は佐賀藩だったが、警備を怠り、四囲の各藩も消極的だったため、なすこともなく8月17日に要求を受け入れて出航させたのだった。図書頭は、責任を痛感して始末を記した遺書を残して自害。享年41歳。このフェートン号事件は、後に幕府の海防強化と文政8年(1825)の異国船打払令にまで発展したという。当時、長崎の町民達は、図書頭に深い哀悼の意を表し、諏訪神社境内に祖霊社(康平社・図書明神)を祀った。康平社は、諏訪神社本殿右奥にある。

長崎の宗教史を物語る貴重な墓碑
●キリシタン墓碑/福瑞寺(ふくずいじ)●

キリシタン墓碑

花クルス

福瑞寺の本堂横には、側面に花十字が刻まれた大きなキリシタン墓碑がある。
これはキリスト教が古賀の浦に入ってくる前のお墓の跡だといわれるもので、墓石に花クルスが刻まれている。傍らには仏教徒の墓である約500年前のいくつかの墓を集め積んだ五輪の塔があるが、これらのように埋めてあった墓石を壊してこのキリシタン墓碑が造られたのだという。約400年前のものと推測されるこの墓碑の存在から、古賀地区には古くは仏教があって、キリスト教の時代が約50年あったことが証明された。長崎のキリスト領だった時代の遺物は全く残っていないので、この墓碑はとっても貴重な存在なのだ。

長い年月をかけて建てられた壮大な墓
●唐通事・東海/春徳寺●

東海の墓

東海の墓獅子頭

春徳寺にある県指定の有形文化財に指定されているのが東海家の墓。東海家の始祖・徐敬雲は、中国人で、元和3年(1617)に来崎。2代・東海徳左衛門が唐通事に任ぜられ、宝永2年(1705)に辞職したが、その後も東海家は10代に渡り唐通事を勤めた。この東海家の墓は徳左衛門が両親の菩提を弔うために造営したもので、延宝5年(1677)に完成したわけだが、何はともあれ一見の価値がある墓だ。というのは、墓は5段から成り、完成まで数年を要したというだけあって、とにかく壮大なのだ。このことから長崎には、なかなか仕事がはかどらないことを例える“東海さんの墓普請(ぶしん)”という言葉がある。広大な敷地に全部で29基の墓碑があり、獅子頭を施した石柱まである。この獅子頭には、かつては金の目玉がはめこんであったそうで、夕陽を受けピカピカ光り、長崎に入港する唐船蘭船が入港の目印にしていたと伝えられているとか。その目玉、残念ながらいつの間にか盗まれたとかで現在はない。

信仰と愛に生きた殉教者の墓
●ベアトス様/橋口町・山里小学校下●


ベアトス様の墓
キリシタン弾圧の頃、本原郷小峰(現石神町)に、百姓のジワンノ(ジョアン)ジワンナ(ジョアンナ)夫妻とミギル(ミカエル)という親子3人がいた。この一家は信仰と徳によって全員がキリシタンだった浦上村の村人の尊敬と信頼をあつめていたので、役所は一家を改宗させて村人達を背教に導こうと見せしめのために水攻めにした。しかし彼らは背教しなかったので、この地で火あぶりの刑にされ殉教に葬られたのだという。
生命をかけて神への信仰と愛に生きたこの一家の精神を村人達は忘れず、9世代350年もの間、ここを「ベアトス様の墓」として大切にしてきた。ちなみにベアトスはポルトガル語で神のみもとで“永遠の至福”に入るという意味の「ベアト」から名付けられた。

大浦天主堂内壁面の石碑、実は墓碑
●プチジャン神父/大浦天主堂●


プチジャン神父の墓碑
国宝大浦天主堂。実はこの名称は通称で、本来は「26聖殉教者天主堂」。つまり、殉教していった二十六聖人に捧げる教会で、実際、殉教地である西坂の丘の方向に向けて建てられている。修好通商条約の締結により寛永16年(1639)以来続いた約200年の鎖国時代が終わると、再び渡来した外国人達はその居留地に教会を建てることができるようになり、長崎にも元治元年(1864)、フランス人宣教師フューレ、プチジャン両神父の努力によって大浦天主堂が建立された。この教会でプチジャン神父は奇蹟と対面した。大浦天主堂が完成した2月19日から約1ヶ月後の3月17日。潜伏していた浦上のキリシタン達が大浦天主堂に現れ、プチジャン神父に「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたのだ。大浦天主堂は、長い禁教の時代を経て潜伏していたキリシタンが名乗りをあげた世界宗教史の奇跡として知られる信徒発見の地であり、プチジャン神父はその奇蹟の瞬間に立ち会った人物だった。中央の通路を主祭壇の前で進んで行くと、右側壁面にはめ込まれた蝋石版碑が目にとまる。これは大浦天主堂を建立し、旧キリスト教徒の子孫を発見し、日本カトリック教会を復活させた故プチジャン神父の墓碑。遺体は、祭壇の真下である地下に安置されているのだという。

外海の人々を救ったフランス人宣教師
●ド・ロ神父/野道キリシタン墓地●


ド・ロ神父の墓
明治12年(1879)、外海地方の主任司祭として赴任してきたフランス人宣教師であるド・ロ神父(正式にはマルコ・マリ・ド・ロ神父)は、フランスのノルマンディのバイユ郡ヴォスロールで1840年に貴族の家庭に生まれた。外海へ赴任したド・ロ神父は、深い人類愛をもって、当時困窮を極めた暮らしをしていた外海の人々を魂と肉体の両面から救い、生涯の全てを捧げた偉大な人物だ。 旧出津救助院やド・ロ神父記念館など、ド・ロ神父が力を尽くしこの町を支えた証である建物と、その歴史を今に伝えるいくつかの文化施設が点在する出津文化村から車ですぐの野道キリシタン墓地には、このド・ロ神父が愛した多くの信徒達と共に眠っている。かつてのド・ロ神父の墓碑は中段右手に今も現存するが、現在は多くの人々が訪れ、祭典などが行なわれることもあり、入り口に新たな墓碑が建てられている。

“長崎の女傑”と呼ばれる茶貿易の功労者
●大浦慶/高平町●


大浦慶の墓


大浦慶の墓石

長崎でも屈指の油問屋の家に生まれた大浦慶。しかし、幕末になると大量の輸入油に押され、どこの油商も経営難に陥った。そこでお慶は油商に見切りをつけお茶の輸出を計画。佐賀の嬉野茶の見本をイギリスやアメリカなどに送ると、3年後の安政3年(1856) 、見本を見たイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルト(グラバー園内のオルト邸の主)が長崎に来て、お慶に大量の茶を注文するようになった。するとお慶の茶貿易は順調に発展。大きな利益を得た。晩年は詐欺に遭い事業に失敗するなど不遇なお慶だったが、明治17年(1884)、明治政府はお慶の茶輸出を率先して行った功績を認め、功労賞と金二十円を贈った。がしかし、その時お慶は危篤状態にあったのだという。お慶のもとに県の使者が出向いた日から一週間後、お慶は生涯を閉じた。享年57歳。墓は、お慶ゆかりの聖天堂がある清水寺本堂から100m程上った高平町の高台にある。11基カギ型に並んだ大浦家の墓碑のなかで、お慶の墓が一番新しく、生年と没年の月日が刻んである。
 
コラム★長崎に眠る人々の遺産

ド・ロ神父が残した「外海文化」


ド・ロ神父

出津教会

ド・ロ神父記念館や旧出津救助院跡(共に国指定重要文化財)など、ド・ロ神父ゆかりの地を訪れると、建築、製粉、搾油、パン、マカロニなどの製法、農機具、イワシ網工場など、神父があらゆる知識と能力を持ち合わせていたことに驚かされる。現在でも外海エリアの名物はド・ロ神父が故国フランス産の小麦粉を原料に落花生油を引き油とする独特の製法を考案して造り伝えたド・ロ様そうめんだ。また、神父は、教会建築にも大きな役割を果たしている。ド・ロ神父の設計・施工で建てられた台風の被害を避けるための低く堅牢な造りの出津教会(県指定有形文化財)。信徒達神父が奉仕と犠牲の結晶として一つ一つ積み上げた煉瓦造りの聖堂・黒崎教会。そしてド・ロ神父が設計・施工、大野地区の26戸の信者のために建てられた出津教会の巡回教会・大野教会(県指定有形文化財)。この大野教会に見られる赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜて玄武岩を積み上げたいわゆるド・ロ壁(ド・ロ塀)も外海の特徴的な建築用法だ。外海を支えた証である建物が点在する出津文化村周辺以外にも神父が開墾した農耕地や私財を投じて掘った井戸、農作業小屋などが残っている。これらは深い人類愛を持って外海の人々に生涯の全てを捧げたド・ロ神父の偉業であると共に、今もなお受け継がれている外海独自の文化と呼べるだろう。

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