カテゴリ7◆未来へ希望を託した嘉名が付けられた町名

比較的新しくできた町には、字名などを利用するより、“栄えるように!”“発展しますように!”などという期待や願望が込められている嘉名も多い。改めて調べてみると、あれも、これも!という感じで以外と多いことにビックリ。各町、果たしてどんな思いが込められているのだろう?

江戸に追いつけ追い越せ!の活気ある町
■江戸町/この町は、戦国時代末期にあたる天正13年から文禄元年(1585〜1592)にかけて設立され、当時、長崎の最南端の町であったと共に、オランダ屋敷(出島)に直面する異国情緒豊かな町だった。町名は、奉行所があるため、江戸から派遣された役人が多かったこともあるが、江戸のように栄えることを祈願して名付けられたのだという。
江戸町

人々に役立つ橋名から拝借!
■若竹(わかたけ)町/地内にある“若竹橋”に由来する町名。かつて無名だったこの橋に、何とかいい名前をつけようと、工事に携わった人々が話し合った結果、すぐ近くにあった竹林にヒントを得て「この橋も若竹のように将来スクスクと育つように」という願いを込めて“若竹橋”と名付けられたのだとか。

平和への願いを込めた電停名が定着
■若葉(わかば)町/すでに電停名に使われていた名称に由来する町名。昭和25年(1950)、路線が住吉まで延長されることとなり、新しくできるこの電停名を決める際、長崎電気軌道が行なった社内アンケートによって“若葉町”という町名が生まれた。戦後間もない長崎。従業員の中には復員軍人も多かったこともあり、平和を願う“平和町”“青葉町”“あけぼの町”などの案があがったが、
結局「若々しい葉がたくましく育つように」と“若葉町”が採用されたのだという。若葉町は、平和への願いが込められた町名だったのだ。

緑は平和のシンボル!惨事を吹き飛ばす名前
■緑が丘(みどりがおか)町/この町も若葉町と同様の意味が込められていた! 緑が丘中学校が町名の由来となっているが、この学校名の由来もやはり平和がキーワード。この町は旧西町にあたるが、原爆により西町一帯は一瞬にして焼け野原となった。その後、急ピッチで宅地化が進み、昭和36年(1961)、人口の急激な増加に伴って中学校が建設されることとなった。その際、“緑は平和のシンボル”という関係者の総意で“緑が丘中学校”が誕生したのだという。

【その他、未来へ希望を託した嘉名が付けられた町名】
●相生(あいおい)町●賑(にぎわい)町●栄(さかえ)町●尾上(おのうえ)町●八千代(やちよ)町●幸(さいわい)町●宝(たから)町●平和町●千歳(ちとせ)町●泉(いずみ)町●北栄(ほくえい)町●三芳(みよし)町●白鳥(しらとり)町●錦(にしき)町●城栄(じょうえい)町●青山(あおやま)町●若草(わかくさ)町●花園(はなぞの)町●宝栄(ほうえい)町



カテゴリ8◆由来が諸説様々な町名

古くからの地名が町名になった場合は、その歴史の長さの分だけ、様々な説が広がっているもの。ここでは、通説と共に伝わる伝説も含め、由来に複数の説がある町名をピックアップしてみよう。あなたはどの説に心惹かれるだろうか? どちらが真実かわからない今、お気に入りを信じ込み、愛着を感じるという楽しみ方もあるかも?

風情vs危険! さぁ、どっち?
■音無(おとなし)町/一方は、近くを流れる岩屋川が、音もなく流れるからという風情ある光景が今にも目に浮かぶような説。かたやもう一方は、鉄道がこの辺りで大きなカーブとなり見通しが悪いため、列車が近づく音が聞こえづらいという意味で、音無と言われるようになったという危険を案じた説。さぁ、あなたの見解はどっち?

いろんな人が矢を…。さぁ、どっち?
■矢上(やがみ)町/誰もが、“矢”がキーポイントになると予測するに違いない矢上町の由来には、なんと4つの伝説がある。
1.薪を取り、狩りをして暮らす人々が山神祭りを行なう際、山神に矢を捧げたという山神説。
2.昔、戦が行なわれた時代、武運長久を祈るための儀式として矢を神に捧げていたという軍神説。
3.昔、※2鎮西八郎為朝が、八郎橋の上から八幡神社にある大楠を的に矢を射たという為朝説。
4.弘安4年(1281)に、当村平野区字平原という場所で発見された宝剣にまつわる宝剣説。
矢と剣にまつわる4つの伝説。さぁ、あなたの見解はどっち?

矢上町・矢上神社

2つの職業が浮上。さぁどっち?

■金屋町/由来は2つ。1つ目は、町ができた当時、この辺りは海に面した丘陵地で魚市場が置かれていたことから“さかなやまち”と呼ばれていたのだが、いつの間にか“さ”が取れて、“かなやまち”になったという説。2つ目は金物を取扱う業者が多く住んでいたから、という説。さぁ、あなたの見解はどっち?

地形vs住んだ人々、さぁどっち?
■女の都(めのと)/まずは、長崎では日当たりのいい南向きの傾斜地を※1参照「老婆の懐(ばばのつくら)」ということから、日当たりのいいこの地も“乳母(めのと)”と呼ばれていたという説。そしてもうひとつは、壇の浦の戦いに敗れた平家の女官が住み着いたため、“女の都”と呼ばれるようになった説。さぁ、あなたの見解はどっち?


【その他、由来が諸説様々な町名】
●寄合(よりあい)町
(今博多町、大井手町にあった遊女屋を現在地に寄せ合わせた説vs現在の古町がその頃寄合町と称していたが、そこの住民が現在地に移り寄合町に、跡地が古町となった説)
●丸山(まるやま)町(緩やかな傾斜地で丸山説vs開港地として栄えていた頃の平戸で丸山という地が花街だったことによる説)
●勝山(かつやま)町(現在の桜町小学校(旧勝山小学校)の地に勝山左近という武士の屋敷があったことに由来する説vs西郷、深掘の連合軍が長崎を攻撃した時、迎え撃った長崎純景がこの地で連合軍を破ったことから勝山の地名が起こった説)

寄合町・丸山公園
●東小島(ひがしこしま)町・中(なか)小島・西小島・上(かみ)小島(昔、この辺りまで海岸であり、少し沖の海中に小さな島があったことに由来する説vs南北朝時代の頃、将軍・足利義輝の上使いとして長崎に着任した小島備前守がこの地を構えていたことに由来する説)
●鶴の尾(つるのお)町(この地に鶴が飛来してきた説vsこの辺の地形が、鶴が連なって飛ぶ形をした丘が連続していることに由来する説)
●戸石(といし)町(砥石の産出による説vs戸石神社の御神体が木片と軽石であることから木石と呼ばれていて、後に“といし”に転訛した説)
●浪の平(なみのひら)町(辺りに断崖が続き、波が迫る平地だった説vs波も静かな内海による説vs波によって平になった浜辺の説)
●鹿尾町(かのおまち)(草原を意味する“かの”が長音化した説vs新しく拓いた開墾地の“加納”が転じた説)
●毛井首(けいのくび)町(草木〈毛〉の茂る首地形説vs開墾にちなんだ“切杭”の転訛説)
●大籠(おおごもり)町(新開地にちなむ町名説vs大いに引き籠った地説)
●扇(おうぎ)町(町の地形が扇の形説vs末広がりの扇にちなんだ嘉名説)
●大手(おおて)町(戦国時代にあった十面城という砦の大手門伝説vs浦上川に灌がい用の井手が築かれていたことに由来する説)
●柳谷(やなぎだ)町(自生の柳が多かった説vs谷あいに造られた田んぼのことから“やなヸだ ”の転訛説)
●柿泊(かきどまり)町(牡蠣が採れる岩場だった説vs柿の木が多かった説)
●京太郎(きょうたろう)町(京太郎という大地主説vsこの辺りで採取されていた火を燃やす時に焚き付けとして用いた“木ヨロド”の転訛説)
●油木(あぶらぎ)町(ロウソクの原料となる櫨(はじ)の木vsツバキ油の原料となるツバキの木)
●早坂(はやさか)町(土地や地域の境を意味する“端矢(はや)”の坂道vs茂木方面から長崎に通じる早道の坂)
●式見(しきみ)町(平家の流れを汲む樒(しきみ)氏による支配説vs樹木の樒が多く自生していた説vsシキ(砂石、礫地)ミ(水、海)の転訛説vs神功皇后が神楽島で神楽を舞う姿が見えた説)
●炉粕(ろかす)町(キリスト教禁教以前にあったセントルカス会堂前のルカス通りの転訛説vs銀の製錬の際に生じる留加須(不純物)説)


カテゴリ9◆隣接する町に影響を受けた町名


隣接する町に影響を受けたというのは、鳴見(なるみ)台などがいい例で、“鳴見町の中に造成された台地”だから“鳴見台”と、なんともストレートなネーミング。しかし、なかにはちょっとシャレたネーミングもあるので、紹介しよう。

場所が限定しやすい利点あり!
■三京(さんきょう)町/鳴海台と同様にわかりやすいネーミングがこちら。昭和50年(1975)に誕生したこの町は、かつて向郷だったことから、本来ならば向町なるところだったが、すでに式見エリアに向町が存在したことから、両隣の三重町と京泊町から一文字ずつ拝借! さらに、“三京”には、三重エリアの京(みやこ)に発展するように……という願いも込められた嘉名なのだ。

お隣さんにちなみ七福神から命名!
■大黒(だいこく)町/この町は、寛文12年(1672)、隣接する恵比須町が大きくなり過ぎたことによって分割されてできた町。海面が埋め立てられ、地内に恵美須神社が祀られていたことから名付けられた“恵美須”にちなんで“大黒”とは、非常にわかりやすく、縁起がいいってものだ!

昔が偲ばれる美しい名前
■秋月(あきづき)町/この町は、もともと昭和40年(1965)に飽の浦町2丁目の一部と3丁目の一部が合併してできたため、飽の浦の“浦”と三丁目の“三”をとって“三浦町”の案があったという。しかし、その飽の浦町が、昔は“秋ノ浦”と呼ばれ、観月の名所だったことから、この何ともロマンチックな町名になったのだ。

【その他、隣接する町に影響を受けた町名】
●西山台・西山本町・上西山町・下西山町(西山町)●上戸町・新戸町(戸町)●新中川町(中川町)●上戸石町(戸石町)●新小ヶ倉(小ヶ倉)●三原町(本原町)●エミネント葉山町(葉山町)●城山台(城山町)



カテゴリ10◆具体的な由来が不明の町名

“おそらく”あるいは“もしかしたら”という推測の範囲でのみ由来がわかる町もあるが、あまりに古くから残る地名などは断定不可能。ということで、あんな理由やそんな理由で由来不明の町名は下記の通り。

●もしかしたら組●
■木鉢(きばち)町・東立神(ひがしたてがみ)町・西立神町
/近くに神ノ島・皇后島・女神・高鉾島などの神功皇后ゆかりの地名が多いことからこれらの地も関係があるのではないかと考えられているが、厳密なところは不明。何か、素敵な物語が隠されているのかもしれないな〜。
■界(さかい)町
/日見宿と網場浦の中間、つまり町と町の境(さかい)に位置するから?と推測されている。


皇后島

●相当古くからある組●
■手熊(てぐま)町
/なんと平安末期には、すでに手隈(てぐま)の地名があったというが、由来についてはまったく不明。残念!
■畝刈(あぜかり)町/この字はじめて見た人で読める人はなかなかいません! 畝の振り仮名は“せ”や“うね”で、何故“あぜ”と読むようになったかさえ不明なんだとか。
■松崎(まつざき)町/市内でも5本の指に入る面積の大きな町だがその大部分は山林と農地で、小字名も多い松崎町。縄文時代の才木遺跡があることから相当古くから地名はあったと考えられているのだそうだ。

●おそらく組●
■元(もと)町/長崎港の南東にある丘陵地で、もともとは大浦郷の一部だったことから、大浦郷の古い集落の中心だったと推測! 元町は、全国でかなり多く見られる町名だが、神戸や横浜といった、長崎と共通点の多い町に存在するのは、何だか偶然ではないような気もしてくる……。
■田手原(たでわら)町/『長崎地名考』に「蓼原(たではら)は眉嶽の東にあり」と記されていることから、かつて湿り気の多いこの丘陵地に多くの蓼が自生していたため、蓼原の地名となり、後に田手原と書かれるようになったのではないか?と推測されているのだ。

【その他、具体的な由来が不明の町名】
●弥生町●潮見町●現川町●かき道(かきどう)●古賀町●中里町●出雲町●古河町●小ヶ倉●米山町●目覚町●弁天町●相川町(あいがわまち)●葉山●常盤町●中新町

 
コラム★新長崎市、各エリアからピックアップ!
(新長崎市…2005年〜2006年に、新たに長崎市に加わった旧7町)


●旧野母崎(のもざき)町野母町/斉明天皇4年(658)、紀州熊野の漁師夫婦が漂着。無事辿り着いたのは、故郷の神である熊野神社の加護によるものと感謝し、夫婦は自宅近くの丘に勧請した。野母の地名の由来には諸説あり、この熊野神社の縁起によると、無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、“野の母”で野母と名付けられたと記されている。



野母町・熊野神社

●旧三和(さんわ)町川原町/川原池内にある池の御前神社は、河原(川原)大蔵太夫高満という在地領主が、正暦5年(994)11月に愛娘遠地(阿池)姫の冥福を祈念するために建立したという伝説が残っている。また、この河原氏の古城跡やその一族の墓といわれる五輪塔や宝篋印塔もあることから、河原(川原)氏に由来する町名だといわれている。


川原町・池の御前神社

●旧香焼(こうやぎ)町香焼町/かつての香焼島で、延暦23年(804)〜大同元年(806)に弘法大師空海が中国へ渡る行き帰りの際、この香焼島に立ち寄り、地内にある円福寺で焼香したという伝説が残り、これが地名に由来している。


香焼町・円福寺

●旧伊王島(いおうじま)町伊王島町/古くは「祝島」とか「硫黄島」と呼ばれていたが、島に伝わるところによると、昔(391)、神功皇后が新羅征伐の際、軍船を整えるためにこの島に寄港。美しい島の風光を目にし、祝詞を賜った故事にちなみ“祝島”と呼ぶようになったというが、長崎の儒者・西川如見が『長崎夜話草』で「古へは泉湯ありしといへば硫黄もありしならん。」と、硫黄に触れていることから硫黄島の説も加わったという。


伊王島町

●旧高島(たかしま)町高島町/由来は不明。この地に住み着いたのは鎌倉時代の文治元年(1185)、平家の落武者が住み着いたのがはじまりで、その後江戸初期にキリシタン弾圧の手を逃れるように長崎近郊のキリシタンが、また鍋島藩が設置した遠見番所に鍋島藩士が居住したと伝わる。現在の高島の住民の祖先にあたるのは、宝暦元年(1751)頃、現三重町からキリシタン宗徒を慕いが移住した百姓16人とその家族だという。


高島町・グラバー別邸跡

●旧外海(そとめ)町神浦(こうのうら)エリア/神浦エリアにも神功皇后伝説が残る。三韓を征伐しての帰途、神浦に寄港。上陸して浜辺の石に腰かけ休憩されたという。それを“御腰かけ石”といい、皇后がその石に腰かけ「この浦は……」といわれたことに由来するという。ちなみにその時神功皇后が腰かけられた“御腰かけ石”は、今も地内にある神浦神社に残されていて見ることができる。
(現在、神浦エリアには、神浦扇山町、神浦北大中尾町、神浦上大中尾町、神浦下大中尾町、神浦丸尾町、神浦江川町、神浦上道徳町、神浦下道徳町、神浦口福町、神浦向町、神浦夏井町の11町がある)



神浦○○町・神浦神社

●旧琴海(きんかい)町
琴海戸根原町/戸根とは、石の多いヤセ地の意味で、このヤセ地が戸根原川がもたらす砂礫によって長浦村地域で広大な平地となったことから戸根原の地名が起こったといわれている。

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