カテゴリ4◆
歴史上の人物ゆかりの町名

その地を支配した人物や伝説の旅人、長崎奉行に町の有力者! 時代は違っても、いずれも長崎の地に、そして長崎の人々に多大な影響を与えた歴史上の人物がいた。そんな人物にゆかりのある地名が、現代においても町名として息づく場所がある。芒塚町は、長崎出身で芭蕉十哲の一人、向井去来が京都から故郷の長崎に帰り、再び京都に向かう際に日見峠で詠んだ句に由来。また、長崎開港後の町建て以降にはじめてできた6町のひとつ、島原町が万才町に改称されたのは明治5年(1872)で、明治天皇が長崎に行幸されこの町の旧町年寄・高木清右衛門邸に宿泊されたから。バンザイ!

●開港以前、長崎を支配した長崎氏●
■西山町・西坂(にしざか)町・立山町・桜馬場(さくらばば)・矢の平(やのひら)/元亀2年(1571)の開港以前、長崎の町一帯を支配していたのが長崎氏で、現在も夫婦川町に残る“城の古址(しろんこし)”と呼ばれる地に居城「鶴城」を構えていたといわれ、そのエリアが長崎市内で最も早く拓かれた町だとされる。西山と西坂は、そのエリアから見て西の方角にあることから名付けられたのだ。また、立山は長崎氏が木を植えてみだりに伐採することを禁じたため。桜馬場は、長崎氏の馬場が置かれそこに桜が植えられていたため。矢の平は、長崎氏の武術練習場があったためと伝えられている。聞いてびっくり!


桜馬場・桜馬場天満宮

●長崎奉行・牛込忠左衛門勝登●
■鳴滝(なるたき)・梅香崎(うめがさき)町/鳴滝の地は、かつて平偃(ひらいで)と呼ばれ、中流に水が落ちる場所があった。それを、牛込忠左衛門が京都洛北の鳴滝にちなみ“鳴滝”と名付けたのだと伝えられている。今も川に横たわる巨岩には「鳴瀧」の2文字が刻まれているのを見ることができる。牛込忠左衛門が名付けた町がもうひとつ。梅香崎町だ。しかし、その由来には2つの説があり、ひとつは埋め立て地の先の意味の“埋が先”、そしてもうひとつは、隣接する十人町天満宮の境内に梅の木があり、花の盛りにその芳香が大変な評判を呼んでいたからというもの。鳴滝も梅香崎町も延宝年間(1673〜1681)に長崎奉行が名付け今も親しまれているいい名前だ。
鳴滝・鳴滝岩

【その他、歴史上の人物ゆかりの町名】

●飯香浦(いかのうら)町・茂木(もぎ)町・平野町・石神(いしがみ)町・立岩(たていわ)町・岩見(いわみ)町・神の島(かみのしま)町(神功皇后)
●小曽根(こぞね)町
(小曽根六左衛門…現万才町居住の豪商)●小菅(こすげ)町(小菅清直…戸町浦の地頭深堀氏の関係者)●国分(こくぶ)町(国分氏…町区域にかなりの部分に居住する者)●八郎岳(はちろうだけ)町※2鎮西八郎為朝…)●家野(いえの)町(家野氏…地方豪族)●淵(ふち)町(淵主計充…戦国前期の豪族)●稲佐(いなさ)町(稲佐氏…武人)●興善(こうぜん)町(末次興善…長崎代官・末次平蔵の父で貿易商人)●高平(たかひら)町(弘法大師)●深掘(ふかほり)町(深掘能仲:三浦五郎左衛門尉平能仲…現長崎半島西部の地頭)●茂里(もり)町(森伊三次…館内在住の有力者)●多以良(たいら)町(平家の落人)●福田本(ふくだほん)町・小浦(こうら)町(福田氏:平兼貞…平家の流れを組む平兼盛の長男)


カテゴリ5◆移住者の出身地にちなんだ地名

現在の長崎の町の発展は、元亀2年(1571)、大村純忠がポルトガルとの貿易港として長崎港を開いたことにはじまったことは周知の通り。この開港に伴って海辺に突き出た現在の長崎県庁付近を中心に、各地から集まる人々を住まわせる町造りがはじまったわけだが、その最初にできた6町の町名を見て思わず感嘆の声をあげてしまうのだ! 島原町、大村町、平戸町、横瀬浦町、外浦(ほかうら)町、分地町(現在では万才町、江戸町の一部)。そう! 分地町を除く5町は、長崎に先駆けてキリスト教の布教が行われた地。その地からの移住者を多く住まわせたことによって生まれた町名だったのだ。
このような町名は他にも残っている。ちなみに、現在の万才町の一部は、かつて博多の商人達が移住したため博多町(後に本博多町)と称されたこともあった。また、現存はしないが、万屋通りに並んで観光通りと交差する“榎津(えのきづ)通り”にその名が残され今も親しまれている旧榎津町(現在は万屋町の一部)は、筑後国榎津、現在の福岡県大川市産の家具類の取引を行う商人が多く居住していたことから名付けられたものだ。

キリシタン保護地に、あの町から移住

■樺島(かばしま)町/長崎くんちの人気演し物「コッコデショ」で知られる樺島町。この町の成り立ちは古く、天正8年(1580)。現在の野母崎樺島町付近で天然痘が発生。この伝染を避けるために野母崎樺島町の人々が移り住み拓いた町といわれている。当時、野母崎樺島町の人々の多くはすでにキリシタンだったため、キリシタン保護地の長崎に移ってきたのだ! 前面の海が埋め立てられ元船町ができるまでは船着場で、旅館や海に関連する商店などで大いに栄えた町。


樺島町・ともづな石


絶好の住宅地に移住した“ふるかわ”の人々
■古川町/長崎にもうひとつ存在する“ふるかわまち”。そう、古河町だ! この古河町は、かつての大村藩領で戸町村古河と呼ばれた。この古河の人々が移住して住み着いたことから古川町の町名が起こったといわれている。中島川の清流近くのこの辺り一帯は、かねてより絶好の住宅地で、しだいに人口が増えたため寛文12年(1672)に本古川町、東古川町、西古川町の3町に分割され、長崎くんちの踊町では、馴染みのこの町名は昭和41年(1966)まで続いたのだという。

【その他、移住者の出身地にちなんだ地名】
●筑後(ちくご)町(筑後地方の商人)●五島町(内乱を避けた五島の人々)



カテゴリ6◆住居者や店舗など職業にちなんだ町名

町名を見てすぐわかるのが、比較的市街地に多く点在していた職人の町。今でも現存する町名も多く、目にするたびに、かつて長崎に住んだ人々の暮らしぶりを想像させてくれる。例えば、中国貿易の梱包に使う竹籠を造る職人が多く住んだ籠町、港に面し、船の繋ぎ場兼修理場だった船大工町には当然ながら船大工が住んだ。本石灰町は付近の船着場があり、隣の油屋町で油精製のため使用される石灰の荷揚げ場となり石灰を取扱う業者が居住していたことに由来。また油屋町は油商人によって開かれ、鍛冶屋町も船具の鍛冶職人が現在の万屋町付近の旧鍛冶屋町から移住したことによる。他にも思わず“長崎で?”と驚くような職業も発見!

昔から万商人が集まった賑わいの町
■万屋(よろずや)町
/はじめ高麗町といわれていたが、のちに鍛冶職人が多く居住するようになったために鍛冶屋町と改称。しかし、鍛冶職人が上部の今鍛冶屋町(現在の鍛冶屋町)を拓いたため、本鍛冶屋町と呼ばれてしだいに鍛冶職人が今鍛冶屋方面へ移り住み、代わりに雑貨商が増えたことから、延宝6年(1678)に万屋町と改称された。その名の通り、大正期には地内に料亭、貿易商、鉄工所、洋品店、はかま屋、家具屋、製靴屋などがあったという。万屋通りにある茶碗蒸しで人気の吉宗は今年創業140周年! 今や万屋町の代名詞になっている。

植木の生産地ならではのネーミング
■松原(まつばら)町/古賀エリアにおける植木栽培の歴史はとても古く、なんと元禄時代から約400年! 幕末には長崎の貿易商によってオランダ船や唐船に乗せ、輸出もされていた。この松原町の名も、“松の植木の生産地”から名付けられたもの。松原は今も昔も植木の町なのだ。
※詳しくはナガジン2006.5月『“花と木と人”がきらめく植木の里・古賀へ』参照



松原町

その名の通り塩が取れる浜?

■塩浜(しおはま)町/現在の三菱病院から飽の浦小学校一帯には、塩浜跡と塩浜脇という小字名が残る。なんと、長崎市年表によれば、享保16年(1731)、飽の浦に塩田ができ、小規模ながら食塩の生産が行なわれたことが記されているのだ。現在では、想像もしないかつての暮らしぶりが垣間見られる町名だ。

続いて…その名の通り金も掘れた?
■金堀(かなほり)町/塩浜が塩ならば金堀は金! そう、長崎でも現在の女の都や三ッ山町の六枚板(小字名)辺りで、江戸時代以降に何度か金鉱の採掘が行なわれたという記録が残っているというのだ。また、その金掘りを職業とする人がこの地に住んでいたという記録もあることから小字名に定着。これを採用して昭和41年(1966)に金堀町となった。今でも金が眠っていたりして……。


【その他、住居者や店舗など職業にちなんだ町名】
●麹屋(こうじや)町●魚の(うおの)町●馬(うま)町●新大工(しんだいく)町●出来大工(できだいく)町●桶屋(おけや)町●八百屋(やおや)町

八百屋町・八百屋町通り
 
コラム★知って納得!長崎オモロイ俗名

犬の糞横町(いんのくそよこちょう)/これはどこか一定の場所の地名ではなく、ある条件が当てはまるとこう呼ばれるというニュアンスのもの。西浜町や銅座町、江戸町などにこう呼ばれる道筋があったといわれるが、その条件とは、道が狭くしかも不潔な感じの横町ってことらしい。各町でそう呼び合ったというが、決して自分の町のことは言わなかったところらオモシロイ。喜ばしいことに現在はこの条件に当てはまる場所はないようだ。
シバヤンジ/銅座橋の向かいの角から西方の小道に入ったところに弦月形の“銅座釜屋”と呼ばれる地があった。銅座が設けられ銅座銭を鋳造していた当時、熔鉄を製造する熔鉄炉の釜が設置されていた場所だ。その近くに人字形の通りがあり、ここを“シバヤンジ”と呼んでいたのだそうだ。由来は、近くに数軒存在した芝居小屋の存在。当時の人は、芝居を“シバヤ”と言っていたことから“芝居小屋の地”または“芝居小屋へ行く道”が訛ったものだと言われている。


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