長崎街道沿いにあたる豊かな自然に包まれた古賀エリア。この地における植木栽培の歴史はとても古く、なんと元禄時代から約400年! 幕末には長崎の貿易商によってオランダ船や唐船に乗せ輸出もされていた。そんな知られざる歴史や古賀植木の魅力を調査!


ズバリ!今回のテーマは

「代々受け継ぐ精神を古賀の花木と人に見る!」なのだ



4月1日に開幕した“長崎さるく博’06”。「さるく」とは、長崎弁でぶらぶら歩くという意味で、「長崎さるく博’06」は、パビリオンなどは一切なく、日本と中国と西洋の文化が今なお色濃く混在する長崎の町中をぶらぶら歩き、その歴史の断片に触れてみよう!という日本ではじめてのまち歩き博覧会。そのさるくコースの1つにピックアップされているのが、400年の歴史を誇る植木の里・古賀。長崎市と諫早市の市境にあたるこの町エリアにも、知られざる歴史や魅力が溢れていた!

さるくコースになっている道を散策していると、立派な植木を擁する庭園と同時に通りに季節の花々が楽しめる。


取材中に通さるくに参加している人達に出会った。


国道34号線に架かる歩道橋は、なんとびっくり緑色! 周囲の自然に同化していて古賀ならではの歩道橋だ。

        

取材時は、ちょうど第51回古賀植木まつり(ふれあいまつり)の準備で忙しい4月末。ツツジや藤が咲き誇り、春満開のポカポカ日和だった。

さて、この植木の里として名高い古賀エリアは、いったいどんな歴史を辿ってきたのだろう?


◇植木の里・古賀の歩み

【土地と気候と時代が育てた古賀文化】

郷土愛に満ちた唄が魅力名所をプッシュ!
『古賀民謡』

一 燃ゆる緑木 真紅の花と
  植木育てて 名が高い

二 山の紅葉が ちらほらすれば
  黄金玉なす 古賀温州

三 名所の里と 訪る人の
  松茸土産に 笑の顔

四 ひろくとどいて 外国人も
  抱いて可愛いや 古賀人形

五 村の城山 暮れそむ頃に
  平和の鐘つく 福瑞寺

(作詩・振付 古賀女子青年団/作曲 諫高女校・早田茂)


上記は昭和6年(1931)に作られた『古賀民謡』。当時、郷土愛が盛んに唱えられた頃で、歌で古賀を知らせ、古賀を自慢しているのが特徴。四季折々の古賀の情景をうたったこの歌は、古賀の歩みをひも解くヒントになりそうだ。


自然豊かな農村がキリシタンの町へ
現在、古賀と呼ばれるエリアは、八郎川上流域にある船石町、中里町、古賀町、松原町、つつじが丘1、2丁目、鶴の尾町、富士団地の8町。そしてこの八郎川には、清水川、都通(つうつう)川、地蔵川、正念川、松原川という支流が流れ、かつては田園が広がるのどかな農村だった。もともとこの地域は、平家の落人が落ち延び、山野を拓いて住み着いたといわれ、戦国時代にはすでに「古賀」の地名だったという。

天正のころ(1570年ころ)になると、島原藩有馬氏の所領となり、古賀村から神社仏閣が消え、天主堂とキリスト教伝道所がそびえ立った。これまであった寺院が焼き払われ一村こぞってキリシタンになったというのだ。キリシタン禁教時代にこの地に潜伏したイエズス会のマタ神父が記した書簡によると、当時、古賀の町は、島原藩有馬領に属する一城のある場所で、天正16年(1588)、城主は家族全員と共に信仰に入りつつあったという。また、当時の古賀の地はとても涼しく、多くの川や泉や涼気に恵まれ、その川の一つは滝となって絶壁から落下し、見事な景観だったそうだ。


◆ココがポイント!
キリシタン教徒の墓地となったのが、キリシタン撲滅のために、時の島原藩主によって建立された浄土真宗の福瑞寺(ふくずいじ)の境内といわれている。現在境内にはキリシタン殉教者の供養塔と共に、慶長年間(1596〜1614)のものとされる一個のキリシタン墓碑が横たわっている。徳川幕府によるその後の厳しい弾圧によってキリスト教の一村だった形跡が何一つ残っていない中、この墓碑は村に伝わる唯一のキリシタン史跡なのだ。


福瑞寺

キリシタン墓碑


長崎街道といえば“古賀の藤棚”
江戸時代になると※1長崎街道の道筋として栄え、特に長崎の伝統工芸品の※2古賀人形は、長崎を発つ人や長崎在住の人達に親しまれた。今から約400年前の文禄元年(1592)、旧長崎街道沿いにある小川家三代目、小三郎の代に、京都の諸公卿の御用達土器師、常陸之介という人物が日本漫遊の際来崎。1年余り滞在した中で小三郎に土器製造の秘法を伝授した。その後小三郎は農業の傍ら副業として神仏、儀式用の土器を制作。晩年に小型の人形を製造するようになったのがこの古賀人形の発祥なのだそうだ。明治の頃には親族三家が古賀人形の制作にあたっていたが、現在では一軒で制作している。




◆ココがポイント!

この長崎街道沿いにある小川家の前の“※1古賀の藤棚”も古賀名物のひとつ。昔は街道を通る旅人や諸大名の休憩所となっていた茶屋跡だ。今年もため息が出るような見事な姿を見せてくれた。



(※1 ナガジン!2004.6月 『越中先生と行く 長崎街道〜市内編〜』参照)
(※2 ナガジン!2004.8月 『物にも思い出! 長崎土産を素敵にコーディネート』参照)


様々な時代を経て生まれた植木業
慶長17年(1612)にわずか4年間、天領となった古賀村は、寛文7年(1667)、再び幕府領(天領)となった。そしていい伝えによると、それから約20年後の元禄年間(1688〜1708)、古賀植木の基礎が築かれることになったのだ。ちなみに所領は安政4年(1857)に大村領の大浦海岸が外国人居留地となったために古賀村内の“木場”と“中里”は大村藩に領地替えが行われ明治維新を迎え、明治4年(1871)、廃藩置県で古賀は長崎県直轄となった。

◆ココがポイント!
この古賀地区の中でも一番、植木業がさかんなのが松原町。現在もここが古賀植木の中心を担っている。『古賀民謡』にもうたわれるように、今では“古賀といえば植木”“植木といえば古賀”といわれる程の植木の里となった。


★自慢のお庭拝見! 古賀尋常高等小学校の選奬園(せんしょうえん)
地域の誰もが通った学び舎
古賀小学校の前身である古賀尋常高等小学校は、現在の西陵高等学校東長崎分校の場所にあった。明治42年(1909)3月30日、国内における良い学校ということで文部大臣から表彰を受け、この名誉を記念するために校内に“選奬園”と名付けられた庭園が設けられることになった。村人達はこの名誉を喜び、工事が決まるとこぞって立派な植木や石を寄付。中には自分の庭の大切なマツなどをかついで来た人もいたのだとか。また、村人達はとても教育に熱心で、敷地もオルガンなど学校にある様々な道具は、おおかた寄付によるものだったという。現在地へ移転した古賀小学校にも、“選奬園”を引き継ぎ、長崎唯一の立派な日本庭園がある。


古賀尋常高等小学校


古賀小学校の庭園

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