この要素をみると、なるほど古賀は植木の町となるべくしてなったのだと確信させられる。
古賀植木の守護神・恵比須神社 天保年間(1830〜1847)、すでに“植木仲間”という名前で発足し、品種改良、販路の拡張、生産調整などを行ってきたのが、現在、“古賀植木まつり”や“グリーンキャンペーン”などを主催している古賀植木園芸組合。 この“植木仲間”が明治6年(1873)、向名札元の田んぼの中にあった恵比寿様を氏神として松原名西山に遷座し、同業者の融和をはかったといわれているのがこの恵比須神社だ。ちょうど明治文化が進むに連れて植木の需要が伸びていた頃で植木仲間の強化、親ぼくが強く望まれる時代。植木仲間は、みんな心のよりどころとなる神様を求めていたのだという。そして、「神様のことだから敷地は誰かに寄付をお願いしよう」と、現在地に地開きし、植木仲間だけの奉仕作業で祀ったのだという。現在、数十種類の平戸ツツジに囲まれた祠(ほこら)の傍らには、古賀植木の前途を見守るかのように“古賀植木創業記念碑”が建立されている。
江戸時代のある年の初秋、古賀村一帯が大暴風雨で山津波が続出したために収穫を目前にした水田が荒野と化し上納米も納められなくなった。その被害状況を長崎代官所へ申し出ると、その実情を上府して大阪奉行まで届けるように命じられた。そこで、庄屋と部落の乙名(おとな)、それと庄屋の警護役だった田島某の3人が上府し嘆願した。結果、上納米の件は以後三年間猶予をもらったことでひとまず安心。そこで帰りにせっかくだからと京都見物に足を伸ばし、帰りに船便で淀川までくると、船着場に植木の露天が出ていたのだそうだ。そこで田島某が “珍しい木”を見つけた。そして、いくつかの苗木を土産に持ち帰り自宅の庭に植えると翌年の春に見事な赤い大輪の花が咲いたという。
今も伝わる古賀の淀川(ヒラドツツジ)は、大暴風雨→上府→土産の苗木→赤い大輪の花=『淀川』という経過で命名されたというわけ。それにしても、今回、取材途中で目にした数々の『淀川』は、青々と茂る葉をバックに鮮やかなピンクの大輪の花をつけ、なんとも美しかった!!
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