◇古賀植木ものがたり

【古賀植木の由来と変遷】

古賀植木の祖は行政手腕の持ち主?
古賀植木の栽培はとても古く、元禄時代にはすでにその記録が残されていて、幕末の文化・文政のころには松原地区を主産地として生産が行われていたそうだ。いい伝えによると、元禄年間(1688〜1708)、古賀村松原名西山に現在でいう町村長並みの行政手腕の持ち主であった西山徳右衛門という人物がいて、古賀村が純農村のままでは経済的に成り立たないということで、全国へ先進地の視察に出掛けた。その際、各地で植木や盆栽が目につき、「これだ!」との結論を出し農家の副業として推奨したのが、この植木・盆栽だったという。
さて、徳右衛門が考えた植木業を受け入れるにふさわしい古賀の要素が3つあるというので紹介しておこう。

一、 古賀の人の心
二、 村人を純農業から解き放つ天領統治による働きかけ
三、 貿易港、商業都市として繁盛する長崎の近郊である立地

この要素をみると、なるほど古賀は植木の町となるべくしてなったのだと確信させられる。


古賀植木、海外へ
技術向上と共に販路も拡張してきた先人達のおかげで、幕末のころ、古賀の植木職人達は、長崎はもとより、喜々津の舟津から小舟を漕ぎ出して時津、彼杵、横瀬浦など方々に行商に行き売り歩いた。また、その頃には、長崎の貿易商の手によってオランダ船や唐船にも輸出がはじめられた。さらに安政年間になると外国貿易船も制限が緩和され、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ各国の船も長崎に寄港するようになり、外国人達も植木の美しさに魅了され買い求めたという。明治時代になるとシベリア、朝鮮、台湾方面にまで多く積み出され、なかでも中国人向けに手を加えた古賀独特の曲木(まがりき)作りは、他県では真似のできないものとして人気を集めていたそうだ。

古賀植木の守護神・恵比須神社
天保年間(1830〜1847)、すでに“植木仲間”という名前で発足し、品種改良、販路の拡張、生産調整などを行ってきたのが、現在、“古賀植木まつり”や“グリーンキャンペーン”などを主催している古賀植木園芸組合。
この“植木仲間”が明治6年(1873)、向名札元の田んぼの中にあった恵比寿様を氏神として松原名西山に遷座し、同業者の融和をはかったといわれているのがこの恵比須神社だ。ちょうど明治文化が進むに連れて植木の需要が伸びていた頃で植木仲間の強化、親ぼくが強く望まれる時代。植木仲間は、みんな心のよりどころとなる神様を求めていたのだという。そして、「神様のことだから敷地は誰かに寄付をお願いしよう」と、現在地に地開きし、植木仲間だけの奉仕作業で祀ったのだという。現在、数十種類の平戸ツツジに囲まれた祠(ほこら)の傍らには、古賀植木の前途を見守るかのように“古賀植木創業記念碑”が建立されている。



恵比須神社


古賀植木創業記念碑

●古賀植木園芸組合(農事組合法人)http://www.kogaueki.or.jp/index.html

長崎くんちと古賀の植木職人

実は、長崎くんちと古賀の植木職人とも無縁じゃなかった。長崎の商家や町家では、長崎くんちの“庭見せ”を十分考慮して建築と庭づくりを行っていて、踊町79ケ町にそれぞれ得意先を持っていたそうだ。町家の庭には数々の名園、庭園も多く、それらの庭づくりは、古賀の植木職人の長年の歳月をかけた陰の苦労の賜物だったという。

戦時中は空襲にこそ遭わなかったが、多くの植木が伐採され、農地に代わったという。様々な局面を切り抜け、先祖代々の素養を受け継ぐ現代の植木職人さん達400年の時を経た今、改めて考えてみると、西山徳右衛門が考えた3つの要素のうち、四方を山々に囲まれたその環境と人々の心、つまり「一、古賀の人の心」が、最大の要素だったように思われる。
現在、古賀で生産される主な樹種は、長崎サツキ、五葉松、カナメモチ、クロマツ、アオキ、ヒラドツツジ、マキ、ツゲ、カイヅカイブキなど。歴史と伝統を受け継ぐ植木職人さん達が、日々愛情をふり注ぎ育てた古賀植木を、一度じっくり鑑賞してほしいものだ。


【古賀ゆかりの植木と技術】

★ 「古賀の淀川(ヨドガワ)」
「古賀の淀川」にまつわる伝説
4月中旬から5月にかけては、ツツジや藤が見ごろの季節。クルメツツジにミヤマキリシマ、サツキなどツツジの種類は数々あり、ことに地名がついた名前のものが多い。「古賀の淀川」もしかり。しかし古賀と淀川、地名が2つ入っている名前も珍しいものだ。実はこの名前にはこんな伝説が残っている。

江戸時代のある年の初秋、古賀村一帯が大暴風雨で山津波が続出したために収穫を目前にした水田が荒野と化し上納米も納められなくなった。その被害状況を長崎代官所へ申し出ると、その実情を上府して大阪奉行まで届けるように命じられた。そこで、庄屋と部落の乙名(おとな)、それと庄屋の警護役だった田島某の3人が上府し嘆願した。結果、上納米の件は以後三年間猶予をもらったことでひとまず安心。そこで帰りにせっかくだからと京都見物に足を伸ばし、帰りに船便で淀川までくると、船着場に植木の露天が出ていたのだそうだ。そこで田島某が “珍しい木”を見つけた。そして、いくつかの苗木を土産に持ち帰り自宅の庭に植えると翌年の春に見事な赤い大輪の花が咲いたという。

今も伝わる古賀の淀川(ヒラドツツジ)は、大暴風雨→上府→土産の苗木→赤い大輪の花=『淀川』という経過で命名されたというわけ。それにしても、今回、取材途中で目にした数々の『淀川』は、青々と茂る葉をバックに鮮やかなピンクの大輪の花をつけ、なんとも美しかった!!


★「ラカンマキ」
日本一のラカンマキがこの町のシンボル
さるくコースの散策ポイントにもなっている“赤瀬邸”の庭園には、樹齢約600年、高さ約10mを誇る日本一のラカンマキがそびえ立っている。地区全体が庭園といえる松原において、このラカンマキは古賀植木のシンボル的存在。古賀植木がはじまったといわれる元禄2年(1689)に、中国の浙江省から移植された名木だという。赤瀬邸はこのラカンマキを主木とした枯山水庭園。この主を母樹とした挿し木で多くの植木も生産されているのだとか。

★「老楠(おいぐす)」

昔みんなが親しんだ思い出の中の大木
昔、旧国道、かつての古賀村の南に三かかえも四かかえもする大きなクスの木が一本あり、人々はこのクスを「さかいのクス」と呼んでいたそうだ。つまり、幹の一方は古賀村の方へ、もう一方は矢上村の方へと広がっていたため、まるで村境を決めるために植えたかと思われるような木だったというのだ。この木の下には古賀川が流れていたため、夏は涼しく人々の憩いの場となっていたそうだ。そればかりではなく、古賀小学校の教職員の転勤見送りもいろいろな行事もこの大楠の木の下でくぎりをつけたといわれている。残念ながら現存しないが、かつての資料の中でこの大楠に何人もの子どもが腰をかけ、弁当を食べる子どもの絵を見つけた。古賀の人々の木へ親しむ心が伝わってくる絵だった。

★ 「曲木(まがりぎ)」

他県にはない古賀の植木職人の技
万治2年(1659)、観音様を信仰する中国商人の許登授が、長崎へ向けて航行する途中、破船、沈没の危機に遭いながらも無事長崎に辿り着いたことを、古賀に程近い地(現:平間町間の瀬)に祀られた“滝の観音”の導きと信じ、以来中国商人の信仰を集めてきたという。中国商人達は、滝の観音に参拝した後、古賀一帯の植木見物にまで足を伸ばすようになり、古賀植木との縁が結ばれていった。そんな中国人向けに作られたのがサクラ、グミ、マツ、カエデなどの曲木。近年、曲木技術を駆使したスツールなどのインテリアが目に付くが、植木における曲木は、生け花の世界に由来する技術なのだという。いずれもその曲線は美しく、目を見張るものであり、庭に存在感を与える“特別な木”であったことだろう。


※滝の観音/弘法大師が唐の留学を終えた帰朝の際、立ち寄り滝水を眺めて「これは『大悲示現』の霊地だと観音慈尊の梵字を滝中の懸崖(けんへき)に記したという結縁から滝の観音と呼ばれるがこれは通称。正式には『長滝山 霊源院』という黄檗宗の寺院。許登授によって観音堂や日本唯一の中国式石橋と伝わる「らかん橋」を架けた。ちなみに、川向いのツツジ園の造園は、松原出身の又作という庭師だと滝の観音の過去帳に記され、この庭師が記録に残る最も古い古賀出身の庭師だといわれている。


★自慢のお庭拝見! 迎仙閣(ぎょうせんかく)

行仙岳と一体となった庭園
昔と今では庭の役割もスペースもすっかり様変わりし、眺める和風の庭から自分が手をかけ楽しむ洋風のガーデニングへと変化してきた。そんな中、古賀の町では昔ながらの眺める庭園に出会うことができる。池や島を配する回遊式庭園(別名:大名庭園)や、熊本の水前寺公園のような各地のいい景色だけを盛り込んだ縮景式庭園のように、庭の形式も様々。ここ迎仙閣は借景式庭園といわれ、前方にそびえる行仙岳の景観を借りてきてはじめて成立する庭となっているのだそうだ。もみじの新緑と紅葉が見事で、5月はこのもみじの新緑に映えるヒラドツツジ(古賀の淀川)が美しく咲く。敷地内には座敷からのその絶景を詠った吉井勇の歌碑がある。





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