女神大橋の基礎があるのは、西泊(にしどまり)。昭和44年に西泊トンネルが開通するまで、西泊地区は“陸の孤島”といわれ、飽の浦方面へは峠道を山越えするか、市営交通船を利用するしかない場所だった。そんな西泊の地は、寛永18年(1641)頃、丘の上に西泊番所があり、対岸の戸町(国分町)と共に長崎港警備のための番所が置かれていて、福岡藩と佐賀藩が1年交替で常時500名ずつの番兵を置いて警備にあたっていたという。そのため千人番所と呼ばれたとも。また、町内には、承応2年(1653)に平戸藩が港内外7ケ所に築造した※台場の一つ、“神崎台場(こうざきだいば)”があった。この神崎台場の地こそ、男神と呼ばれ女神と対した場所だ。長崎港は、この男神と女神の部分が一番狭くなっていて、神崎台場は常に防備の要として重要視されたのだそうだ。神崎台場跡は現在その大部分の敷地が神功皇后にまつわる旧村社である神崎神社の境内となっていて、石倉跡や一の増台場の跡がわずかに残されているのみだという。神崎神社の境内末社・男神神社は、金貸大明神と呼ばれ信仰を集めてきた社。しかし、残念ながら現在は西泊方面からも、木鉢方面からも木々がうっそうとして容易に参拝することはできない。女神大橋の基礎が埋め込まれている西泊側の車道行き止まりのフェンスには鍵がかけられ、連絡先が記されていた。参拝希望の人は連絡してみよう。
※台場/外国船などから国を守るため大砲設置していた場所。後に古台場と呼ばれる7ケ所の台場とは、港内の太田尾、女神、神崎と港外の白崎、高鉾、長刀岩、蔭尾。その後、文化4年(1807)、異国船打払令によって古台場に隣接して、すずれ、女神、神崎、高鉾、蔭尾という5つの新台場が新設。また、翌年のフェートン号事件を受け、文化7年(1810)さらに増台場と呼ばれる神崎、高鉾、長刀岩、魚見台の4台場が新設され長崎港の台場が完成したという。
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