やっぱり知りたい!
■女神大橋・あちらの町とこちらの町

基礎が埋めこまれている戸町vs西泊

【戸町界隈】
古くは「とはち」ともいい、古地図には“戸八”とも記されているエリア。この「とはち」には、船の停泊地を意味する「門泊(とはち)」に由来する、また、中世(鎌倉〜戦国時代)にこの辺り一帯を所領していた戸町氏(戸八氏)に由来するなど諸説あるようだ。元亀元年(1570)、来日したイエズス会の日本布教長であるカブラル神父が、西彼杵半島海岸各地を布教のため巡訪した際、はじめに訪れたのがこの戸町だったという。
さて、女神大橋の「女神」という名前の由来について触れておこう。それは、神功皇后が朝鮮出兵された際、船上から見られた深江浦(ふかえうら)、現在の長崎港の風景を愛でられ、浦の入り口に浮かぶ東西の小島を、陰陽または満干に例えられたという。そこで神功皇后は、東側の小島を陰神島(めかみしま)つまり女神島、西側の小島を陽神島(おがみしま)つまり男神島と命名。以来、女神という美しい名前で呼ばれるようになったのだ。と、すると、向かい側は……。

その前に……
●戸町周辺の町並み・国分〜小菅のチェックポイント!

●戸町御番所跡/かつてより長崎港口を眼下に見下ろす景勝地であった国分町に外国船来航の出入りをチェックするために設置された番所跡。現在も石垣が残っていて、道脇に説明板が設置されている。ちなみにこの石垣前のバス停は「戸町番所跡」。



●戸町トンネル/全長327m、昭和8年(1933)に戸町と小菅町の間に開通したトンネル。開通する以前は、市街地への交通は戸町港からの汽船、もしくはサンパンと呼ばれる手漕ぎ船。陸路だと国分町海岸を人力車で迂回するしかなかった。昭和46年(1971)、深掘と香焼間が埋め立てられ、臨海工業団地が完成し、三菱重工長崎造船所香焼工場や関連工場の進出に伴って小ヶ倉バイパスが建設され、車の流れが移行した。しかし、女神大橋が開通したことによって、戸町トンネルの交通量が増加したようだ。

●小菅修船場跡/日本最初の様式による近代的ドックで、船を引き揚げる滑り台の部分がソロバン状に見えるため、通称「ソロバンドック」。日本最古のレンガ造り建造物の捲き揚げ小屋内に設置されたボイラー型蒸気機関で船を引き揚げていた。


●金鍔谷(きんつばたに)/戸町の金鍔バス停近くの切り立った崖の上に横に裂けた大岩があり、その中に15坪程度の穴がある。この穴は禁教の時代、大村生まれのキリシタンで、慶長19年(1614)にマカオに渡って修道士となった金鍔次兵衛が隠れ住んでいた場所。ちなみに金鍔次兵衛の金鍔とは金製の鍔の刀を持った武士姿で隠れていたから。この次兵衛神父に関しては、外海にも同様に隠れていた岩が発見されていたり、長崎奉行の馬丁をしていたりと神出鬼没の行動で布教活動を行っていたといい伝えられ、やがて捕らえられ西坂の丘で処刑されている。

【西泊界隈】

女神大橋の基礎があるのは、西泊(にしどまり)。昭和44年に西泊トンネルが開通するまで、西泊地区は“陸の孤島”といわれ、飽の浦方面へは峠道を山越えするか、市営交通船を利用するしかない場所だった。そんな西泊の地は、寛永18年(1641)頃、丘の上に西泊番所があり、対岸の戸町(国分町)と共に長崎港警備のための番所が置かれていて、福岡藩と佐賀藩が1年交替で常時500名ずつの番兵を置いて警備にあたっていたという。そのため千人番所と呼ばれたとも。また、町内には、承応2年(1653)に平戸藩が港内外7ケ所に築造した※台場の一つ、“神崎台場(こうざきだいば)”があった。この神崎台場の地こそ、男神と呼ばれ女神と対した場所だ。長崎港は、この男神と女神の部分が一番狭くなっていて、神崎台場は常に防備の要として重要視されたのだそうだ。神崎台場跡は現在その大部分の敷地が神功皇后にまつわる旧村社である神崎神社の境内となっていて、石倉跡や一の増台場の跡がわずかに残されているのみだという。神崎神社の境内末社・男神神社は、金貸大明神と呼ばれ信仰を集めてきた社。しかし、残念ながら現在は西泊方面からも、木鉢方面からも木々がうっそうとして容易に参拝することはできない。女神大橋の基礎が埋め込まれている西泊側の車道行き止まりのフェンスには鍵がかけられ、連絡先が記されていた。参拝希望の人は連絡してみよう。

※台場/外国船などから国を守るため大砲設置していた場所。後に古台場と呼ばれる7ケ所の台場とは、港内の太田尾、女神、神崎と港外の白崎、高鉾、長刀岩、蔭尾。その後、文化4年(1807)、異国船打払令によって古台場に隣接して、すずれ、女神、神崎、高鉾、蔭尾という5つの新台場が新設。また、翌年のフェートン号事件を受け、文化7年(1810)さらに増台場と呼ばれる神崎、高鉾、長刀岩、魚見台の4台場が新設され長崎港の台場が完成したという。


それでは……

●西泊周辺の町並み・木鉢〜神ノ島のチェックポイント!

●皇后島(こうごじま)/長崎湾の入口近くにある陸繋島。“ねずみ島”といった方が分かりやすいだろう。明治35年(1902)に長崎遊泳協会が設立されて翌年から肥後熊本藩の小堀踏水術でこの島を道場とした活動が始まった。長崎の子どもという子どもは、夏休み期間、大波止から連絡船に乗って渡り水泳訓練を受けるという風習が昭和40年代後半まで続いた。現在は工業用地として埋め立てられ陸続きとなり、皇后地区公共埠頭と呼ばれている。


●小瀬戸遠見番所跡/元禄元年(1688)、小瀬戸にも外国船の見張番所として設置された。通報は、野母の権現山の野母遠見番所で外国船の船影を発見すると、すぐに船の合図でこの小瀬戸番所に知らせ、次に梅香崎番所、玉園町永昌寺内の遠見番所、そして番士がこれを長崎奉行立山役所に通報したという重要な拠点を担っていた場所だ。


●木鉢カトリック教会/クリスマス前のお昼に訪れると、イルミネーションの飾り付けがしてあった。夜はきっと優しい灯りが瞬いていたことだろう。聖堂へ続く階段を上る途中左手に、マリア様を囲むようにベンチが配された小さな公園があった。マリア様の背後にわずかに女神大橋の主塔が見えた。





●神ノ島/長崎港口に位置する神ノ島の町名にも神功皇后にまつわるいい伝えが残る。神功皇后がこの島へ上陸し、榊に鈴をつけて神に祈られたことに由来しているというのだ。また、神ノ島の近くの高鉾島も同じく。神功皇后が島に渡って鉾を立てられたので高鉾島。神ノ島に女神……地名の由来を辿っていくと神功皇后が魅せられたという長崎の地形の美しさを改めて見直したいものだ。

◆ココがポイント!
西泊という町名の由来にも注目! この町の海岸が長崎港の中でもさらに小さな入江になっていて小船の碇泊地となっていたことから、東側の東泊(とまち)に対して西側の船泊りという意味から西泊と呼ばれるようになったのだという。女神に男神、東泊に西泊。女神大橋は、昔から深い縁がある土地を結ぶ現代の掛け橋となったというわけだ。

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