2.田上峠〔たがみとうげ〕〜潮見崎観音〔しおみさきかんのん〕


旧茂木街道は転石(ころびいし)より道を左にとって木場を通り、裳着(もぎ)神社の横を下っていく道筋。
では、これからは車で移動といこう。車コースのスタート地点は田上バス停


越中先生
「このバス停辺りに“梶原茶屋”があったんです。田上の茶屋の名物は、筍(たけのこ)めしと青餅。筍めしは茶屋で食べて、青餅は買って帰るんです。昔の人はここで休憩して、茂木まで2時間もあればタッタタッタ歩いて行ってたんじゃないですかね。」

かつて茂木は長崎に住む外国人の行楽地だった。長崎から茂木に行くために越える峠は田上峠といわれ、茂木へ向かう外国人達の休憩所として賑わったのだ。明治後期の絵はがきには、英語の看板「TEA HOUSE KAJIHARA SADA」「WELCOME MATUBARA SHIMA TEA HOUSE」と記されているものがあり、当時、外国人が行き交った様子がうかがえる。

田上バス停から転石への入り口まではわずか200m程。

越中先生
「茂木には5、6軒旅館があったんですよ。そのなかに薩摩屋という屋号の旅館があったんです。それで鹿児島まで船が行っていたことがわかりますよね。西郷隆盛も歩いたんですよ。」

現在新しい道路の建設中で、越中先生も驚きの、思わぬ風景に行き当たったのだが、工事会社の現場事務所から下って行くと、往時実際に歩いていたであろう道筋に出た。



越中先生
「ここはいいですね。これが旧茂木街道。昔の人はこの道を歩いていたんですね。」

明和6年(1769)、長崎の江波市左衛門(えなみいちざえもん)という人が私費で茂木街道を温石(おんじゃく)で舗装(石畳)。その後、安政5年(1858)、長崎出来鍛冶屋町・武内億助(おくすけ)、東築町・蒲地喜平衛(かまちきへえ)が私費でこの旧道沿いを流れる木場川に柳山石橋(やなぎやまいしばし)を架け、交通の便をはかったそうだ。この石橋、市指定有形文化財に指定されていたのだが、残念ながら昭和57年の長崎大水害の際に流失してしまった。

越中先生
「両名共に長崎の魚問屋だったんですよ。たぶん、茂木からの鮮魚運搬の便を考えてこの橋を寄進したんでしょうね。長崎では戦前まで“茂木の夕ざかな”という言葉があったんですよ。茂木のおかみさん達は、夕食の膳に間に合うように、浜で獲れた魚を天秤でかついでこの橋を渡り坂道を駆け足で上ったんでしょうね。」

この柳山橋を渡った木場には大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)があり、さらにこの神社の境内後方の山林尾根頂上に今から約1700年前の弥生中期、竪穴式直径10mの円墳がある。



現在、茂木の名物となっているビワの種を、最初に長崎から持ち込んだ『三浦シオ』もこの木場の出身だ。
ビワの伝来は天保年間(1830〜1844)、南支那から長崎に唐船がビワを運び、長崎代官に献上していたことに始まる。代官屋敷で女中奉公していた三浦シオがその種を貰い受け、弘化2年(1845)甥の山口権之助に送り、権之助が家の一隅にその種を蒔いて茂木ビワの原木を作ったのだといわれている。
柳山橋を渡り、大山祇神社へ向かう道途中、右手斜面に2代目のビワの原木茂木枇杷原木記念碑が建立されている。



柳山橋方向へ戻り、今度は橋を渡らず逆方向へと進んで行く。カーブが多いので気をつけよう。

越中先生
「ここが旧茂木街道。古い道を改造して山の中腹に道を造っているんですね。川端は通らないんですよ、川が氾濫すると危ないからね。だからある程度の高さに道を造っているんです。」

くねくねと曲がる道が続く。

越中先生
「ここから入った山の上に石の御前という古墳があるんですよ。」

茂木を開いた女神・神功皇后を祀る石の御前というお宮。ここには1500年前の直径5mの円墳があり、大木の根元には厚さ7cmの石蓋がある。

越中先生
「さて、ここまでくれば安心。ここが裳着神社です。今では茂木と書きますが、裳着と書いて“もぎ”神社なんですよ。“裳”というのは袴のことですよ。」




この裳着神社は、長崎市で最も古い神社で、明治以前は八武者大権現(はちむしゃだいごんげん)を祀っていた。神功皇后が三韓出兵の途中立ち寄り、裳を着けたという故事から裳着の地名が起こり、神社が建てられたが、キリシタン布教で社殿を焼かれて一時廃され、寛永3年(1626)、再建されて茂木の鎮守となり、明治元年(1868)に裳着神社と改称された。

越中先生
「ここから左に行きますよ。煉瓦造りが見えてきたでしょ? この辺りにはまだ大正時代の建造物と昔の雰囲気ある町並みが残されていますね。ここを片町といいます。」 >風景1



越中先生
「片町より向こうを見ると、当時の漁村と港の風景がよくわかりますね。」
>風景


海岸を右へ少し走ってみる。

越中先生
「これが化石層が出た茂木北浦弁天山ですよ。」

茂木町北浦の白浜海岸には国際的に有名な茂木植物化石層が見られる。明治12年(1879)にスウェーデンの探検家・ノルデンショルドが長崎に立ち寄った際にこの化石を発見し、採集し自国へ持ち帰り古生物学者が研究したのだという。この化石の中には、ブナ、ケヤキ、イヌザクラなどの植物が含まれ、地層の地質時代はなんと1000万年前のものだという。これは日本の新生代植物化石の最初の記録。こんなにスッゴイものが茂木にあるなんてビックリだ。

越中先生
「そしてこの郵便局の脇辺りが初代長崎代官、村山等安(むらやまとうあん)の別邸跡ですね。石碑が建っています。」


かつてイエズス会に寄進された茂木の町。村山等安は長崎代官で熱心なキリシタンだった。慶長年間(1600年頃)、等安はこの地に豪壮な別邸と教会を建て、キリシタン布教の便をはかった。その別荘はまるでお城のようだったと神父達は記している。現在、長崎代官アントニオ村山等安別邸跡の石碑が建つ場所は、等安没後元和2年(1616)に茂木庄屋宅となり、その後、明治39年(1906)天草生まれの道永えいが、その一部に外国人相手の洋風ホテル茂木長崎ホテル(後のビーチホテル)を建設した。
天草生まれの道永えいは、稲佐のロシア将校クラブで働き、ロシア皇太子をもてなすなど国際人として活躍。『稲佐お栄』という名で長崎の女傑の一人に名を列ねる人物だ。

越中先生
「ここからまっすぐ行きましょう。これは玉台寺下の旧道ですよ。この辺りが一番古くて、しだいに埋め立てられていったんですね。家の造りや町並みの違いが歩いて見るとよくとわかりますよ。今の海岸は全部埋め立て地ですよ。」

浄土宗の玉台寺(ぎょくだいじ)は、寛永3年(1624)、僧宝誉(ほうよ)が開山。山門前向かって左側の墓地には、寛政4年(1789)、島原眉山爆発崩壊(島原大変)の時に漂流した死者を埋葬した塔が建っている。


越中先生
「茂木は長崎市内の中で昔からお風呂屋さんが多い町だったんですよ。漁師さんが潮風を浴びて朝帰ってくるでしょう。それで一風呂浴びるんですよ。今はどうなんですかねぇ。ほらここに銭湯がありました。」

>風景


そして今も昔も茂木は漁業の町。京都の料亭で出されているハモの多くは、茂木漁協で水揚げされるものが多いのだという。

越中先生
「茂木で揚がったハモの骨は硬いんですよ。京都は切り方が違うらしく、京都で食べるハモは柔らかく感じますよね。その切り方を聞いても秘伝と言われて教えてもらえなかったけど、たぶん、処理が丁寧なんでしょう。茂木といえば海岸の漁船のイメージですよね。」>風景


海岸通りには新鮮な魚を食べさせてくれる料亭も数軒並んでいる。料亭の味は現在の茂木の最大の魅力だろう。
>風景


越中先生
「旧茂木街道歩きの締めくくりに潮見台の観音様に参詣いたしましょう。」

宝永3年(1706)開山。潮見崎観音の本尊は11面観音菩薩で、子育て、子授けの観音として信仰されている。



越中先生
「ここの石段は茂木の海岸の石を運んで造っているんですよ。この坂道は険しいけど上りやすいでしょ?石垣にも茂木の丸い石を積んであるんですよ。」



上りあがると、茂木の穏やかな海を眺めることができる。


越中先生
「頼山陽(※らいさんよう)はこの辺りの風景を“雲か山か呉か越か”といっているんですね。呉か越というのは中国ですよね。一本の髪のように見える遠くの海の果てを中国に見立てて詠んでいるんでしょう。また、ここは秋の名月が有名なんです。布引の月っていうんです。ほら、あそこから観るんですよ。」
※頼山陽(らいさんよう):頼山陽は江戸後期の儒学者で、詩文や書でも有名な詩人でもあります。文政元年(1818)、39歳の時に長崎まで足を延ばし、蘭船を見物し唐人屋敷で遊んだそうです。文中に出している“雲か山か呉か越か”は“雲耶山耶呉耶越”という彼が(網場から)天草へ向かう船中で作った名吟です。

ここ潮見崎は、日の出、月の出の時間に波浪が起こるのが注連縄(しめなわ)を引き渡したようだから注連が崎ともいうのだという。月が出てその光が海に映り、注連が崎月見台の下にかけて布を引いたようになるから布引の月というのだという。ここからの朝日もまた素晴らしい。

越中先生
「昔はこの辺りの木はなかったと思うんですよ。だからこの月見台が灯台の代わりですよね。遠くからこの月見台が見えたんでしょう。文政元年(1818)って刻まれていますね。これより古いのがあったはずですよ。ここに灯りを立てるんですね。そして航海の安全を観音様に祈るんですよ。」



それでは昔の人に習って観音様に手を合わせる。

越中先生
「茂木の人も長崎の人も必ずここでお詣りしたんですよ。そして帰りに“一口香(いっこっこう)”を買って帰るんですよ。昔、お相撲さんを遊びに連れて来て、帰りに一口香を土産に差し上げたら“饅頭なのに餡が入ってない!”といって怒ったそうですよ。まさか中が空洞とは思わないですもんね。中国にも同じような薄っぺらなせんべいがあります。昔の一口香は今と違って薄っぺらで“唐饅(とうまん)”といい、明治に入ってから今のように膨らんだんですよ。」

中国から伝わった一口香は、茂木に本店がある老舗菓子店の名物品。長崎の特産品としても有名だ。


寄り道しながら旧茂木街道を訪ねる小旅行もここで終了。
帰りは県道と国道を通って正覚寺下へ直行。帰りはなんと15分足らずで到着した。
昔は歩いて片道2時間、今は車で15分。
機会があれば風情ある町並みを辿りながら、今はすっかり忘れ去られた旧茂木街道に沿って茂木の町へ訪れてみてはどうだろう。

●茂木史跡巡り地図はこちら


茂木街道モギトリ話
●開国前、西洋料理が振舞われていた茂木の町
 

安政6年(1859)の開国条約締結以前にも、長崎の町ではオランダ人に対して茂木方面まで自由に遊歩することを許していた。文久元年(1861)、プロシャ使節として長崎に寄港したオイレンブルグも、市内を歩いた後に田上峠を越え、茂木まで遠足をしたそうだ。そして茂木に着いた時、すでにヨーロッパ風の食卓が用意されていたことに驚いている。オイレンブルグが訪れる前にも外国人達がしばしばここまで遠足にきている土地だったので、洋風料理が用意されていたのだ。現在の茂木からはちょっと想像しがたいお話。



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