1.正覚寺〔しょうかくじ〕〜田上寺〔でんじょうじ〕


まずは、路面電車の終点、正覚寺下電停からスタートしよう。


越中先生
「ここまでが長崎の町ですよ。正覚寺の前から小島郷になるのです。」

正覚寺は長崎市街地におけるキリシタン滅却後、最初に開かれた真宗の寺院。この寺の門前に「長崎茂木街道ここに始まる」と刻まれた石碑がある。
横にこれからの道のりを示す案内版があるのでチェックしておこう。



越中先生
「今から歩くのはこの赤い線の道、旧茂木街道ですね。明治大正時代の県道や今も竹やぶが続く馬車道、そして現在の国道が記されているから、この案内版を見るとよくわかりますね。」

緩やかな坂道をしばらくのぼると、右手に国指定史跡・高島秋帆旧宅を示す案内版が見えてきた。


高島秋帆は、わが国最初の西洋砲術の第一人者。鎖国時代の長崎が生んだ最高の人物だ。江戸時代の高島家は長崎四家の一つに数えられる名家で、代々町年寄として長崎の町の行政権を握っていた。最初に近代様式砲術を学んだのは、秋帆26歳の時。文政6年(1823)、シーボルトと同時に出島に来た商館長スチュルレルからだった。この旧宅は秋帆の父、町年寄の高島四郎兵衛茂紀(しろうべえしげのり)が文化3年(1806)に建てた別邸。

越中先生
「この石垣は一度壊れたので積み直してありますけどね。石自体は昔のままなんですよ。高島家の本宅は現在の万才町、家庭裁判所の付近にあったんですよ。それが天保9年(1838)に火災で焼けてしまったので、木造2階建ての建物で雨声楼(うせいろう)と呼ばれていたこの小島郷にあった別邸に引っ越してきたんです。お座敷には天井から障子から全部桜が描かれていたので“桜の間”と呼ばれていましたが原爆で壊れてしまったんです。」

現在は当時の建物はなく、広い石段と石垣、土塀、砲痕石、井戸などが在りし日の面影をとどめている。
さらに進むと右手に八剣神社(やつるぎじんじゃ)がある。
この辺りは進行方向に向かって一方通行だが、車が通るので十分に注意しよう。

越中先生
「結構険しい坂道でしょう? 我々が小さい時この辺は全部畑、段々畑でしたね。」

通りを歩いていると昔ながらのポストやお地蔵さんが見られ、懐かしい気分にさせられる。



越中先生
「街道の入口には必ずお地蔵さんが祀ってある。そして、その脇には市内の各町内が祀る無縁塔があるんですよ。」

お地蔵さんを過ぎ、突き当たりの石段を右へとのぼって行く。
この界隈は、迷路のような複雑な道が多い。石塀や煉瓦(れんが)塀、鉄門に格子戸。”坂の町長崎”の風情ある町並みが今も残されている。

坂をのぼり上がると墓地が広がっていた。


越中先生
「この辺はね、木駄原(こだのはら)っていうんですよ。よく荷物を運ぶ牛が上って行ってたんです。ほらここにもまた町内の供養塔がありますね。この辺りは山だったのに随分新しい墓が増えてますよ。びっくりしました。きれいな墓が多いですよね。それに道が広がって車が通るようになってるんですね。」

当時はこんなに家もなかっただろう。周囲にはこんな風景が広がる。


道沿いにはとにかくお地蔵さんが目につく。


この墓地の中には『長崎ぶらぶら節』の主人公である丸山芸者、愛八の墓もある(本名は松尾サダ)。
また、正徳2年(1712)、痘瘡(ほうそう)が流行し3000余人の患者が出た際、この時の死者を供養し併せて長崎の町に病気が入ってこないように祈念して造られた茂木道無縁塔(市指定有形文化財)がある。この塔の基礎石には獅子が彫られていて、地元の人は「ライオン様」と呼んでいるのだとか。



越中先生
「ほら、見てごらん。ここに崇福寺に来航してきた唐僧の書が刻まれ、その上には観音、阿弥陀、地蔵、釈迦の座像が刻まれてますね。」



この辺りの坂道は、ピントコ坂」という名前で親しまれているが、これは寛永年間(1624〜1643)、贋(にせ)金作りの罪で唐人・何 旻徳(か ぴんとく)が処刑された場所ということから名がついたそうだ。彼を慕った悲恋の遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。この遊女を葬った傾城塚(けいせいづか)がこの坂のそばにある。

越中先生
「この辺りは遊女の墓が多いんですよ。丸山が下にあるからね。『傾城』っていうのは遊女のことです。しかしこの話はあくまで物語ですよ。それにしても、この入り口はわかりにくいですね。周囲に墓ができて迷路のようになってますもんね。」



それにしてもピントコ坂は結構険しくて長い。

越中先生
「長崎で坂段を上り下りする時に“ぴんとこどっこいしょ”というでしょ? 険しい坂道を上る時の掛け声ですよ。だからピントコ坂っていったという説もあるんですよ。昔はそれにしても長い距離を歩いたもんですよね。」



ピントコ坂を上りきり、左に順路をとる。ここは現在バス路線である県道。峠となっている田上は、盆地状の平坦地。ここから西に約3分の松林の中に、かつて臨済宗黄檗(おうばく)派の、隠元禅師の法孫(※ほうそう)である天洲(てんしゅう)が開基した観音寺があった。しかし文化年間、廃寺となり、杉山徳三郎氏によって徳三寺として再興され現存しているのだ。
※仏教用語でお弟子さん



越中先生
「杉山さんという人は佐賀県の大金持ちさんで、伊良林に長崎で初めて電灯を灯した人ですよ。徳三郎さんは自分が死んだら燃やされる(火葬)のはイヤといってね、当時火葬しなくてよかった茂木町田上に寺を造ったんです。戦後は勝手にお寺を造ったらいけなかったんですが、古い寺を復興するのならよかったんですね。ほら、今も観音寺時代の石垣が残っていますよ。観音寺は唐寺だったので、ここの本尊観世音像は明朝のものなんですよ。」




境内には長崎出身の俳人・向井去来(芭蕉十哲の一人)の親戚・田上尼(でんじょうに)が住んでいた庵、千歳亭(せんざいてい)の跡があり、元禄11年(1698)秋に訪れた去来が詠んだ句碑がある。
「名月や たかみにせまる 旅こころ   去来」



越中先生
「田上は月見の名所だったんですよ。田上に月が迫ってくると詠んでいるんですね。この“たかみ”とは旅(た)が身と田上をかけているんですね。」

本堂の裏手へは、向かって左にある墓地を通って行くのだが、竹林に包まれた壮大な敷地には、観音寺時代の歴代住職の墓と杉山家の墓が建てられていた。


徳三寺の横には浄土宗の田上寺(でんじょうじ)がある。ここは寛永年間(1624〜1644)、茂木玉台寺三世の住職・残岌(ざんきゅう)が開山。長崎奉行の茂木巡見の際にしばしば休憩所として利用されていた寺。この寺には徳川三代将軍家光公の甥、家康の孫である松平長七郎が住んでいたという伝説が残っている。


越中先生
「もちろんそれは真実ではないですよ。芝居でのお話。しかし、この伝説にあやかって境内には『長七郎の墓』といわれる墓石があるんですよ。ほら、当時長七郎役を演じていた役者の名前が刻んでありますよ。この葵の御紋は後から入れたんですね。」


確かに本堂前には葵の御紋が入った風格のある長七郎の墓石があった。



茂木街道は田上から一度谷底に下りて茂木へと続く。田上の南方にある丸みをおびた山が唐八景。北側斜面に合戦場(かっせんば)という地名がある。平らに開けていて遠望がきくので、昔はここを茂木口の要路として番所を設け、警備の者を置き、見張りをさせた。長崎開港当初、長崎領主の大村純景(すみかげ)の軍が、深掘純賢(すみまさ)の軍を迎え撃った戦場だったため、合戦場という名前になったといわれている。江戸末期には高島秋帆が砲術演習をした場所だ。



茂木街道モギトリ話
●時代と共に道路も変わる!旧茂木街道から国道へ

旧茂木街道は勾配が急で荷馬車や人力車通行に不便なことから、明治18年(1885)、油屋町から高平町〜田上〜転石〜大川橋〜片町に至る新道が(旧県道)が建設された。この道は、茂木に外国人が遊びに行くようになった時のいわゆる人力車道であり、馬車の道。下って行くと茂木の町を流れる若菜川の上流でに出る。春になると両側は楠の若葉が生い茂り、異国風の道路に見えてくる。道は荒れているが歩くには楽しめるかもしれない。現在、車が走っている道路は昭和9年に開通した国道324号線だ。




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