2.山頂の英彦山神社を目指し、
 ビギナーズハイキングスタート!(前編)



清々しい秋晴れの某日。登山部隊一行は蛍茶屋電停に集合した。
今回は、毎週のように九州内外の1000m級の山に登っておられる藤澤さん、野瀬さんという心強いお2人の案内のもとハイキングを決行! 
まずは登山口である「英彦山」の文字が刻まれた鳥居を目指すことにした。
電停左手にある墓地と商店街にはさまれた通りを抜け200m程進むと、左手に水神神社がある。この神社には、”酒肴をごちそうになったカッパが使った卓石”という
伝説のカッパ石があった。



<水神神社>


<カッパ石>


先程の商店街の右、中島川上流本河内の渓流に架かるのが一の瀬橋。今からちょうど350年前に架設された半円形の石橋には橋銘にローマ字で「ICHINOSEBASHI」と刻まれている。


<一の瀬橋>


<橋銘「ICHINOSEBASHI」>

この一の瀬橋を中心とした旧長崎街道の一部が一の瀬口という市指定史跡で、旧街道から長崎に入る玄関口だった場所だ。蛍茶屋は昔、蛍の名所でここに蛍茶屋と呼ばれる料亭があったことはその地名からおおよそ想像がつくこと。この一の瀬口は長崎街道日見峠道にかかる茶屋跡で、往時夏風物の蛍と和した茶屋は長崎八景の一つに数えられる程の美しさだったという。

長崎を旅立つ人と見送りの人たちが別れを惜しんだという当時の風情を残す遺構は、この一の瀬橋と付近の旧長崎街道だけになっている。一の瀬橋からすぐ地下道に入り国道34号線の下をくぐり抜ける。反対車線に出て旧長崎街道を進んでいくと左手に渡り鳥の芭蕉句碑を見つけた。
これは松尾芭蕉120年忌と蕉門十哲の一人である長崎出身の向井去来100年忌の際、去来の俳統を引き継いだ俳人・平田祥禾が師弟句碑を建立したもので、共に“渡り鳥”を詠んでいる。


<渡り鳥の芭蕉句碑>

しばらく行くと右手に聖母の騎士学園の正門が見え、分岐点に到着。


ここから左手の坂を下り再び国道34号線へ出ると、「英彦山」の文字が刻まれた鳥居が見えてきた。


さていよいよ、ここからが本格的なハイキングコース。気合いを入れ直し、一行は張り切りムードで歩き出した。


しかし、この鳥居から石段が続く坂道は思いのほかハード。周辺には民家もあり、この辺りに住む方の日々の大変さを実感しながらひたすら登る。一行の口数が次第に少なくなり周囲には民家も途切れた頃、彦山登り口の案内版に到達した。まだまだ先は長いというのに、来た道を振り返るなど各々がさり気なく休憩をとる。



登山部隊一行、いよいよ山道へ
まっすぐ伸びた木々の中で森林浴

これから先はいよいよ山道に入る。先程の急な石段とは違い、緩やかな山道なのでホッと安心。杉林と竹林に覆われた清々しい山道では、木の実を拾う程の余裕も出てきた。



しばらく進んでいると、赤い鳥居が立つ岩倉神社に辿り着いた。
岩倉大明神が祀られた祠の奥には5mを超える岩があり、周囲の岩をくり抜いたような壇にはたくさんの狐様が祀られていた。ちょっと異様な雰囲気が漂っていた。



一行は再び山道へと戻り、杉林を歩きはじめた。


10分程進むと分岐点が見えてきた。右へ登るのが本来の道だが、ここは左へと進んでみる。細い道には楓(かえで)の大木があり、頭上には紅葉は見られないが美しい楓の葉がざわめいていた。



ここは、※『長崎四国八十八ケ所霊場』の一つで、豊前房神社境内にある豊前坊下虚空蔵(こくぞう)堂だという。お堂の周りの岩は削り取られたようになっていて、岩盤には仏像が刻まれていた。果たしてこの大きな洞窟は人工的なものなのだろうか? 自然のものなのか?と、一行は突如現れた空間芸術に少々興奮ぎみになってしまった。
※詳しくは延命寺へTEL095(822)0378



<豊前坊下虚空蔵堂>


<石仏>


<洞窟>


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