24回 坂本裕司さん

特殊機械設計の設計士でありながら、ある時はb.b.sakamotoとしてギターを手に歌を歌い、ある時は机に向かって小説を書く。若い頃にハマった音楽を再スタートさせCDを出したのも、これまた若い頃から書いていた小説を発表しはじめ、遂には名誉ある賞を受賞したのも、50歳を過ぎてから。今回は、そんな3足のわらじを履きこなす坂本裕司さんの魅力に迫る。

坂本さんにとって「音楽」とは何ですか?

坂本さん 「僕は26歳の時、その頃住んでいた金沢でライブハウスを経営し、バンド活動をしていたんです。音楽は、設計という堅い仕事とのバランスを保つために、50歳になってから再スタートを切りました。僕にとって音楽とは『生きるためのバランス』でしょうか。時々歌わないと、今や、変になりますからね。」

坂本さんにとって「書く」とは?

坂本さん 「僕は受験戦争に嫌気がさし、京大に落ちた経験があります。京都での浪人生活は実に5年も続きました。その間、いろんな音楽を聴き、いろんな小説を読みあさりました。そうして『生きるということはどういうことか?』を必死に考えました。その答えを見つけるために、自分を自分らしく表現するために僕が選んだのが、小説を書くということだったんです。いま僕にとって『書く』というのは、生きた証(アカシ)ですかね。キザですが。 」


2011年1月、長崎新聞新春文芸短編小説部門にて佳作を受賞され、受賞作品「ペガソスに跨がって」が長崎新聞に掲載されましたね。受賞を知ったときのお気持ちを教えてください。

坂本さん 「このコンテストの一位の発表は、元旦の朝刊に掲載されます。元旦の新聞は正月特集でもあり、かなり分厚いもので、発表欄を探すのに、手間取るんですよ。今年は(今まで4、5回投稿しましたでしょうか)新聞受けから新聞を取って来てページをめくっていくうちに、不思議なことに、急に作品タイトルと、自分の名前が浮んだんです。頭に浮かんだ通りに新聞に記載されているのを見つけたときには、びっくりしました。 400字詰20枚といった短い作品は僕の中では課題で、かなり苦労しましたが、今回貰って、やっと開放されたような気分でした(笑)。 」

2010年9月、坂本さんがお書きになった「漂流」が第41回九州芸術祭文学賞にて長崎地区 次席を受賞されましたね。そのときのお気持ちと、作品への想いを教えてください。

坂本さん 「このコンテストの地区発表は毎年11月初旬に封書で送られてきます。今まで2回応募した経緯から、そのことを認識していました。今回はその封書が昨年の10月初旬に送られてきましたので、『もしや』と思い、開封したら自分の名前が記載されてました。その『もしや』のドキドキ感が、素敵でしたね。 2年前、高校のクラスメートであり、文学仲間の友人が還暦で伊藤静雄賞の佳作を獲ってくれ、これが大いに血を湧かせたんですよ。その友人(福岡在住)と、九州芸術祭文学賞の表彰式で逢おうねと約束してましたが、残念ながら今年は逢えませんでした。しかし、友人て、ありがたいですね。 受賞した2つの作品は、いずれも音楽絡みで書いたものです。両作品とも審査員の方々には、当方のテクニックを誉めていただいているのですが、自分としてはまだ『伝え方』が力不足かなと思えました。伝わってないんですよ、僕の意図が。 いま作品への『思い入れ』を聞かれ、それが強くなかったので、『次席』であり、『佳作』であったのかもしれない。ふと、そう思いました。 」

小説を書くときに大切にしていることは何ですか。

坂本さん 「『何』を『どう』伝えるか。どう伝えたら、読み手に伝わるか、でしょうか。」

夢を教えてください。

坂本さん 「年齢的に、すでに『ゆめうつつ』の状態に入ってますので、この上夢を見ると、訳がわからないことになります(笑)。やっぱり虚構の中からいかに『真理』をそびきだせるか、 でしょうか。つまり『真理』をそびきだしたい、ということです。 」

最後に、長崎の好きなところを教えてください。

坂本さん
「歩いて回れる距離感。その中で生活している人たちです。」


(最後に)
こんな大人が増えたら、まちは変わると思った。それは、子どもたちに「こんな大人になりたい」「大人って楽しそう!」と思わせることができる大人だ。坂本裕司という人は不思議な人である。なんだか格好良くて、柔和な笑顔が素敵な「おじさま」の中には、果てしないワールドが広がっている。そして、人はこんなにも一生懸命に生きることができるのだと教えてくれる。
元船町にあるライブハウス「クレイジーホース」。毎週木曜日、この店に坂本さんの歌声は響き渡る。


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