第30回 漫画家&シンガーソングライター 岡野雄一さん

6年前に漫画家&シンガーソングライターとしてデビューした岡野雄一さん。昨年発表した、認知症の母との日常を描いたコミックエッセイ「ペコロスの母に会いに行く」は、フェイスブックで話題沸騰。今年の夏には映画も公開されることとなった。今回は、そんな一躍長崎の有名人となった岡野雄一さんに迫る。
※「ペコロス」とは小型のたまねぎのことで、岡野さんのペンネーム。

お母さんとの日常を描き始めたきっかけを教えてください。

岡野さん 「以前、僕は自分が編集長をしていた『ナイト長崎』という月刊誌で、好きな漫画を描いていました。母のことを描き始めたのは、父が亡くなってからですから、今から11年くらい前になります。  
あるときライブ中に、母から携帯に『下水工事が来とるけど、どうしようか?』という電話がかかってきたんです。僕は、以前にも同じようなことがあったことから、すぐにその頃問題になっていた、年寄りをターゲットにした詐欺だと気が付いたので、『とにかくお金は出すな!』と言って、電話を切ったんです。でも、それはライブの途中。当然、客席からは笑いが起きるわけです。後からこのことを考えると、なんだかおかしくて、それで母のことを描き始めたんです。  
『ナイト長崎』という雑誌は特定の人にしか読まれない本でしたが、それでも『うちの母も同じですよ』とか『あの漫画、面白かった』という声をいただきました。その頃の僕にとっては、自分の事後報告ができること、絵が描けること、そして誰かがそれを読んで『よかった』といってくれること、それが全てでした。残念ながら、母をテーマにし始めてから2、3年後に『ナイト長崎』は廃刊になりましたが、いろんな支えがあり、漫画を描き続ける場には恵まれました。」

「ペコロスの母に会いに行く」が多くの人に支持された理由は何だと思いますか。

岡野さん 「実は3年前にペコロスの玉手箱という本を自費出版したんです。そのときは500部印刷して、売れたのは300部ほど。僕はそれで充分だと思っていたんです。
その後、あの東日本大震災があり、僕には絵が描けなくなった時期がありました、そうした時期を経て、昨年もう一度まとまったものを出そうと考え、ペコロスの母に会いに行くを発表することにしました。その時考えていたのは、父の十三回忌に合わせて発行したい、ということでした。親戚に自分らしいものを配りたかったんです(笑)。そうした気持ちで出したものを、長崎市内の大きな書店やカフェに置いていただきました。不思議だったのは、3年前に出したものと同じくらい地味なテーマだったにも関わらず、老舗書店で売れ続け、2ヶ月連続で週間ベストセラーの1位を記録したこと。それは、たまたま時代のアンテナにひっかかたんだと思います。

岡野さんは、最初「介護をしている」という意識はなかったそうですね。

岡野さん 「これは今でも思うことなんですが、認知症って病名ですよね。そうではなくて、僕はいまだに母の症状はぼけという言葉の延長だと思っているんです。母とは5年ほど一緒に暮らしましたが、その間に母はどんどんぼけていきました。しかし、その頃の僕には認知症や介護という認識はありませんでした。母がぼけた始めたのは、父が亡くなった年。よく長年連れ添った夫婦の場合、どちらかが亡くなると、残った方はぼけるというような話を聞いていたので、母のことも、年相応のことが起こっているんだと思っていたんです。  
母の症状は脳梗塞で倒れるまでは、とても緩やかでした。母の症状を病気だと知ったのは、脳梗塞で入院した後です。入院するまでは、あまり病院へも行ったことがありませんでしたし、ましてや認知症という認識がありませんでしたから、介護施設へは足が向きませんでした。母のことを病気として捉えたことはなく、本当に年をとるってこういうもんなだろうなと考えていたんです。本来はそんなふうにぼけとるけんで済む社会が一番いいのでしょうね。  
もちろん腹が立つこともありましたよ。でも、母から財布がなくなった。あんた、取ったろうと言われても、疑われたことを怒るんじゃなくて、一緒に探すということをしていました。それらの症状が認知症の典型的な初期症状だということや、僕の対応の仕方が間違いではなかったということを知ったのは、随分後のことです。  
最近、取材を受けることが多く、自分のことを見つめ直す機会が増えました。それで分かってきたのは、漫画を描くという行為が、僕を救ってくれていたということ。よく母親のぼけていく姿を見るのはショックだという話も聞きますが、僕の中ではそれさえも面白がっていた部分があります。ぼけ方が緩やかだったのも、母が雄一、漫画ば描かんかと言ってくれているように思いました。」

岡野さんにとって、お母さんはどんな方ですか。

岡野さん 「母は10人兄弟で、典型的な百姓の長女。だから本当にしっかり者なんです。そのしっかり者の気骨みたいなものは強く感じられ、子ども心にしっかりした母親という印象があります。逆をいえば、面白みのない人でした(笑)。  
母にとって父はひどい人間でしたが、僕の中にはいつも好きな父と嫌いな父の両方がいました。30〜40代の父はストレスを多く抱えていた時期で、幻覚や幻聴が一番ひどい時期でした。それでも、父の短歌を愛する繊細さは好きでしたし、話をしていても面白かったんですね。しかし、母は本当に生真面目で、面白みのない人(笑)。  
母の中に面白さを発見したのは、ぼけ始めてからなんです。しっかり者の母がぼけて、童女に戻っていく感じは、とても新鮮でした。母はまるで子どものように顔をくしゃくしゃにして笑うんですが、それはしっかりした時には見られない姿でした。そういうことも、ぼけていくことを悪い方に考えなかったことの理由のひとつですね。確かに僕の中には、母がぼけていく過程を楽しんでいた部分がありました。よく人から本当のことを教えてください。本当は辛いことがいっぱいあったんでしょうと聞かれることがあるんですが、やっぱり思い出すのは、母の笑顔や面白かったエピソードなんですよね。いま話してて分かりましたが、しっかり者が初めて隙を見せ、その隙を子どもが嬉しく思う……そういうことだったんじゃないでしょうか。そこには、ぼけたからこそ出会えた母がいましたね。」

映画化の話が決まったときはどう思いましたか。

岡野さん 「とにかく驚きました。当時は本当に毎日がビックリの連続でした。本が売れていること、友人がフェイスブックで本を紹介してくれてたこともあり、いろんな人が僕と話をしたいと思ってくれていること、すべての反応がビックリで、映画の話もそのビックリの延長でした。
僕が嬉しかったのは、映画のロケの9割が長崎で行われたことです。映画を観てくれた人に長崎を好きになってほしいという気持ちは強くありますね。交通アクセスひとつとっても、長崎は決して便利な土地ではないけれど、変な言い方ですが、不便さを求めるというか、そこに新しい価値観を求めるという時代になってきているんじゃないかと思うんです。長崎はすり鉢状で地形的にも面白いし、その不便さを面白がってもらえればいいなと思います。」


作品の中には長崎の風景もたくさん描かれていますが、岡野さんが好きな長崎とは?

岡野さん 「若い頃は、長崎の狭くて、急斜面ばっかりで、人と人との関係も近すぎて…みたいなものが嫌で嫌でたまりませんでした。ましてや父のこともあり、思春期の頃は、自分の中に父の血が流れていることに恐怖を感じることもありました。そこから脱するためには家を出るしかないと思い、上京したという経緯があります。しかし、都会に20年も暮らしていると、そうした嫌いだと思っていたところこそが、好きな理由になるんですよね。  
今の僕は父のことも大好きだし、長崎の狭さも、景色も、はっきりした意思表示がなかなかできなくて、ぐちゃぐちゃとした長崎の人たちのことも好きです。自分の中にもそういった部分がありますしね。この年になると、すべてを肯定できますから、いいことも悪いことも含めて、長崎のまちを好きになれたというのはあります。」


岡野さんの夢を教えてください。

岡野さん 「当面の目標は2冊目を描きたいということです。大きな夢は本当にないんです。僕はこれまで自分が暮らしている生活圏半径500メートルのことを描いてきました。これからもその延長で、描いていきたい。このまま、この温かな陽射しの中で歩いて行ければいいなと思っています。」

(最後に)
岡野さんは、優しいおじさんだ。話していると、言葉の端々に両親や家族、そして長崎を愛していることが滲み出る。作品がベストセラーになり、映画化され、有名人になっても「早くまた以前の日常に戻って、好きな漫画を描きたい」と願っている……そんな優しいおじさんが描くものだからこそ、多くの人の共感を呼ぶのだろう。  
「ペコロスの母に会いに行く」は、今年8月に長崎にて先行上映、秋より全国ロードショーの予定。ぜひ、たくさんの人に映画館でペコロスワールドを楽しんでほしい。


【バックナンバー】