文・出島復元整備室 高田美由紀


〈出島出土の牛骨〉

平成11年度に実施しましたカピタン別荘跡発掘調査の際、隣接する庭園から仔牛が数頭出土しました。
この牛には解体痕がなく、死んだあとそのままの状態で埋葬されているようでした。
鑑定の結果、和牛であることがわかりました。
この食べられなかった仔牛は、一体、どういう運命を背負っていたのでしょうか。



出島を描いた絵巻のなかには、多種多様な動物が描かれています。
出島の発掘調査を行なうと、これらの動物の骨が多数出土しますが、なかでも、一番出土量が多いのが牛の骨です。
この牛骨は、出島のオランダ人達がバタビィア(現在のジャカルタ)から船に乗せて運び、出島で食肉用に飼育していたものでした。
出島では、庭園内にあった牛小屋で飼育され、秋から初冬頃に解体され調理されました。
阿蘭陀正月などの宴席の際には、これらの牛を使って豪華な料理がつくられました。

出島で出土する牛の産地を調べてみると、インドのほうに生息していたセブ牛や欧州系の牛の可能性が高いことが分かりました。
また、この牛よりもひとまわり大きな骨格をもつ水牛も出土しています。
水牛は、アジアの南方部に広く生息しています。


川原慶賀『蘭館絵巻』動物園の図
(長崎市立博物館蔵)


阿蘭陀正月 西洋料理
(出島史料館本館展示品)



江戸時代の終わり頃になると、オランダ船が長崎に来航しない時期もあり、牛を入手できなくなった商館員達は、奉行所に願い出て、長崎近郊の農家から和牛を仕入れるようになりました。
食べられなかった仔牛達も、これらの農家から仕入れられたものと思われます。
当時、世界各地で天然痘が大流行し、1796年にはジェンナーにより牛痘が発明されていました。
日本にもこの病気が流布するようになり、出島のオランダ商館医を通して、その治療法が試されていました。
船で痘苗を持ち込み、牛を使って量産していました。
その際に使われたのが、この仔牛達と思われます。
仔牛は、死んでしまった後、出島の庭園内に埋められましたが、150年後の今日、当時日本で行われていた西洋医療について、私たちに教えてくれました。


ちなみに、発掘調査により出土する牛骨のなかに、3〜5cm位の大きさにきれいに切断されたものがみられます。
これらは、その大きさから、ボタンなどの骨製品を作る原料として用いられたものと思われます。
また、もう少し大きなもので、柄が骨製のブラシなども出土しています。
出島に滞在していたオランダ人のなかには、貿易事務にたずさわる事務職員以外に、様々な職人たちがいました。
この人たちが、骨を材料にいろいろなものを作っていたのかもしれません。
また、職人達のなかには、バター職人などもいましたので、牛の乳からバターも作っていたものと思われます。
いずれにせよ、牛は、オランダ人にとって、大事な動物だったのですね。



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