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ここは、慶応義塾の創始者で明治時代の思想家である福沢諭吉が寄宿したところである。
彼は、豊前国(ぶぜんのくに)中津藩(現大分県中津市)の下級武士の子であったが、安政元年(1854)、砲術の勉強という名目で藩から長崎遊学の許可を得て来崎した。
中津藩家老の子奥平壱岐(おくだいらいき)がやはり砲術研究のため、ここに寄宿しており、壱岐の世話で諭吉もこの寺に入ることになった。
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諭吉は、高島秋帆門下の砲術家山本物次郎のもとで砲術や蘭学を学び、のちに、光永寺を出て出来大工町の彼の家に住み込んだ。
現在、同町には「福澤先生使用之井」という石碑があり小さな井戸が残っている。
しかし、諭吉は僅か1年で勉学を止め、長崎を離れることになった。
この年の長崎では、ロシアのプチャーチンが三度来航したり、イギリスの東インド艦隊司令長官スターリングが開港を求めて来航し、日英和親条約が締結されるなど、鎖国が徐々に解けていった時代である。
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〈福澤先生使用之井〉
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諭吉は、その後、長崎から大阪へ行き、ここで緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)に入門した。
再び諭吉が長崎を訪れたのは、幕府が派遣した遣欧使節に反訳方(通訳)として参加し、文久元年(1861)12月29日に使節が乗ったイギリス軍艦オーディン号が帰港した時であった。
この時、再来日していたシーボルトが長崎に居たが、諭吉は、遊学時代に世話になった山本物次郎の所に行っており、会うことはなかった。
しかし、使節団がドイツのケルンに立ち寄った時、彼らの宿舎にシーボルトの妻ヘレーネが、夫の安否を尋ねに来たことが諭吉の紀行文に書かれている。
諭吉は、シーボルトとはすれ違いだったが、その娘イネの面倒を見ている。
諭吉は、安政5年(1858)に大阪から江戸に出て、築地鉄砲洲にある中津藩の中屋敷の長屋に入った。
彼は、ここで蘭学塾を開き、これが慶応義塾の始まりとされている。
ここは蘭学とゆかりのある場所で、同藩の医師前野良沢(まえのりょうたく)が、明和8年(1771)に杉田玄白らと医学書「ターヘルアナトミア」の翻訳を始めた。
こうしてできたのが「解体新書」である。
藩主奥平昌高(おくだいらまさたか)自身も、蘭学に造詣が深く、シーボルトが江戸に来た際に、面会し交流を深めている。
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この築地で、シーボルトの娘楠本イネが明治3年(1870)に開業した。
そして、明治6年(1873)に宮内省御用掛として明治天皇の若君誕生の際に立ち会っているが、この時、福澤諭吉がイネの世話を頼むために宮内省の役人杉孫七郎にしたためた手紙が、現在、シーボルト記念館に残っている。
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〈杉孫七郎にしたためた手紙〉
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