潜伏キリシタンの聖地
東樫山に残る伝説と
往時を偲ばせる風景

三重漁港北側入口、ゆるやかな海岸線に沿った斜面地に広がる樫山地区は、東樫山地区と西樫山地区に分かれ、東樫山地区は古くから潜伏キリシタンの里だった。地域の人々が入信したのは長崎の開港の頃ともいわれ、当時の三重地区の領主をはじめとした多くの人々が洗礼を受けたといわれている。やがて長く厳しい禁教時代へ。潜伏時代には、ここから海を隔てた同じ深堀領(佐嘉藩領)の善長谷へ移住した家族もいた。

※2008.3月 ナガジン!特集「長崎のルルド巡礼」参照
 

お立ち寄りスポット
【樫山赤岳】
樫山赤岳は、神山、または“バスチャンの神山”といわれ、潜伏する長崎のキリシタン達に崇敬されていた地。岩屋山を霊山と崇めていた浦上のキリシタン達は、
三度、岩屋山に登れば、
    樫山(赤岳)に一度巡礼したことになる。
三度、樫山に巡礼すれば、
    一度ローマのサンタ・エケレジア(教会)に
    巡礼したことになる。

と言い、樫山赤岳をさらに崇めていた。 “バスチャン”とは迫害時代に宣教師に代わって外海地方で熱心に布教したといわれている日本人伝道士バスチャンのこと。
※2005.1月 ナガジン!特集「爽快ドライブ2〜祝!長崎市〜夕陽が美しいキリシタンの里・外海」参照
岩屋山に登れない年老いたキリシタンは、できるだけ樫山に近い知人宅を訪ね、樫山の方を向いて祈ったといわれている。
 

キリシタンの心を支えた
バスチャンの椿
ではなぜ、キリシタン達にこの赤岳が神山といわれ崇敬されたのだろうか。それは、迫害時代にバスチャンがここに身を潜め、教えを説き、洗礼を授けていた場所であったことが第一の理由だろう。そして、彼らが外海に残した四つの伝説の内のひとつ「バスチャンの椿」もまた、赤岳信仰を裏付ける伝説だろう。この椿というのは、赤岳の麓にあった椿の大木のことで、バスチャンがその椿の幹に指で十字を記すとその跡がはっきりと残ったことから、キリシタン達は霊木として大切にし、ついには赤岳そのものが神山として礼拝されるようになったといわれている。安政3年(1856)の浦上三番崩れの影響を受け、この椿を巡る騒動が起こった。「バスチャンの椿」が役人に切り倒されるという噂が流れたのだ。そこで出津の八兵衛という若い信徒がこっそり夜にこの椿を切り倒し、根元は海に流して残りをキリシタン各戸に配った。信徒達は大切に保存し、死者が出るとその椿の木片を小刻みにして死者の額に白い布で巻き葬ったという。

ちなみに、四つの伝説の残り3つは「バスチャンの日繰り」「バスチャンの十字架」「バスチャンの予言」というもの。バスチャンの日繰りは太陽暦のカトリックの教会暦、バスチャンの十字架は彼が処刑される前に残し置いた十字架、バスチャンの予言は、七代経つとキリシタンの信仰を公にすることのできる時代がくるというキリシタンの復活、信教の自由、人間の平等を指した予言だった。

伝説の伝道師
バスチャンとは何者?
外海地方に潜伏キリシタンの信仰が続いたのは、日本人伝道師バスチャンの功績が大きいといわれている。一説によると、深堀町平山郷布巻出身で深堀の菩提寺の下男をしていた治兵衛という人物で、長崎港出口の高鉾島沖で焼き討ちにされた黒船のカピタン サン・ジワンの弟子となり伝道活動を行なうようになったという(外海黒崎の「サン・ジワン枯松神社」は彼の墓だという説のほか、諸説あり)。小江、手熊から外海へと伝道し、池島、松島などを転々と移り住み、最後に牧野に隠れ住んでいたが、密告により捕えられ、長崎桜町の牢に3年3ヶ月つながれ78回の拷問を受けたのち斬罪に処された。現在も出津牧野の現地にはバスチャンが使用した井戸が現存し、「バスチャン屋敷」が復元されている。



しかし、樫山赤岳にはバスチャンの時代以前から信仰の地であったという説も残されている。古くから霊験あらたかな特別な地だったのかもしれない。
 

お立ち寄りスポット
【樫山・天福寺】
禁教時代、深堀領であった東樫山に、キリシタンの監視と詮索のために建立された寺院。正門横にも移設されたという藩境碑がある。開祖は深堀菩提寺の七代 天瑞万埼和尚。徳川幕府が設けたいわゆる寺請制度のため、表面上は仏教徒を装い、内輪では自分達の信仰を持ち続けた潜伏キリシタン達は、寺で唱えたお経を取り消すために、自宅で「経消し」としてオラショ(コンチリサン)を唱えるという二重生活を送っていたという。そんな中、天福寺はキリシタンと知りつつも彼らを受け入れ、守り続けた寺院だった。信教の自由の時代となってからは、仏教に転宗する者も多かったとか。



お立ち寄りスポット
【樫山・皇太神宮】
赤岳の中腹にある小さなお堂。以前はここに弁財天が祀られていたが、弁財天はキリシタンと関係するとして深堀領主によって安政3年(1856)の浦上三番崩れの際に没収された。実はその弁財天は、「7つの塚」と呼ばれる7人の殉教者の墓だったという。その後、役人達はここに「天照大神」を祀らせたが、キリシタン達は、拝殿を造り「天照大神」を拝むふりをして7人の殉教者を崇敬していたという。

境内には、浦上三番崩れの際、捕えられる危険を感じた浦上の信者達が、キリシタンの印である御像やメダイを預けたという樫山のペトロ茂重の顕彰碑が建立。彼は、拷問に耐えかね白状した浦上の信徒の証言で捕えられ佐賀の牢で拷問を受けるが脱走。再び捕縛され、深堀の牢で拷問を受け牢死した。樫山の山中にある墓地に眠る。

長く壮絶なキリシタン迫害時代も明治に入り終焉を迎える。明治維新以降、信仰の自由を得ると、人々はカトリックへと復帰した。現在、樫山エリアにある「樫山教会」は、小さく簡素な聖堂ながら、石積みの上にどっしりと建つ。そのたたずまいは、まるで強い心で信仰を守り抜いた往時の人々の意志を静かにたたえているかのようだ。
 

お立ち寄りスポット
【樫山教会】
正面に掲げられた白亜の十字架が、神の家であることを強く示している。樫山教会は、大正13年(1924)8月12日に祝別された。この民家風の小さな聖堂は、五島の聖堂などと同様にかつては畳敷きだったそうだ。黒崎教会の巡回教会として月に2度ミサがあげられる以外、普段は開放されていないので残念ながら拝観は不可。
 

最後に--。
三重地区の三重町、樫山町、京泊3丁目、畝刈町、多以良町には、毎年8月14日から3日間、自治会ごとに深夜12時頃まで行なわれる「三重くどき踊」という祭りがあるそうだ。かつては、幼児からお年寄りまで夜明けまで踊っていたというこの祭りは、旧大瀬戸町の松島を発祥の地とする口説き調の盆踊りで、歌舞伎や芝居の台本、浄瑠璃物語などの歌が七七調の成文となって語り伝えられたもの。幕末、八兵衛という人物が教え伝えたといわれている……もしやこの八兵衛は、「バスチャンの椿」を切り分けた八兵衛と同一人物かもしれない。様々な伝説が残る三重樫山界隈を訪ね歩くことは、これまでほとんどなかった。長く奥深い歴史を知ったところで、その歴史の断片を、ぜひその目で確かめに出掛けてみよう。
 

参考文献
『大村郷村記 第六巻』(国書刊行会)
『わが町の歴史散歩(2)−町名誕生の由来とあゆみ−』熊弘人著
『先駆者 先祖の足跡を訪ねて』山崎政行著(パスカの里史跡顕彰会)
『カクレキリシタン』宮崎賢太郎著
『くにざかいの碑−藩境石物語』古賀敏朗著
『長崎縣郷土誌』(長崎県史談会)
 

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