不思議な石碑があちこち点在。伝説の地もちらほら点在。伝説の人物も続々登場。これまで持ち続けていた“自然豊かな漁港の町”という印象とはひと味もふた味も違う三重エリアの横顔を探りに、三重樫山の歴史散歩の旅へと出掛けてみよう。


ズバリ!今回のテーマは
「江戸時代の風景が見えてくる!?タイムトリップの旅」なのだ




長崎開港以前に開かれた三重
美しい入り江が連なる町の
歴史を偲ばせる“くにざかい碑”

市街地から車で約30分、海と山に抱かれた自然豊かなエリア、三重地区。北は三方山、東は大岳、鳴鼓(なづみ)岳、西は土佐賀山、野々岳に囲まれ、南は穏やかな角力灘(すもうなだ)に面している。三重という地名は、もともと京泊、三重、黒崎の三つの入江からなることから“三江”と呼ぶようになり、のちに“三重”と書くようになったといわれている。


新長崎新漁港ができ周囲の景観は様変わりしたが、海岸は昔の風景を留めている京泊。江戸時代は“京泊浦”と呼ばれ、一時期は港町として大いに栄えていた。そんな街並みを一望できるのが、三京町にある「翡翠ヶ丘公園」。この名の通り、かつては海岸線には稀少な鉱石であるヒスイが取れていて「三重海岸変成鉱物の産地」として、県の天然記念物指定を受けている。三重町三京海岸では1〜1.5m大のヒスイ輝石群が転石として3個あり保管されているとか。

また、眼前に広がる海原には、神功皇后が三韓征伐凱旋の際、立ち寄り舞踏されたという伝説が残る「神楽島」を望むことができる。



実は三重地区の歴史は古く、応安5年(1372)にはすでに“久松”という豪族がこの地方を治め、康正3年(1457)には、久松上総守澄清という領主がその子ども“徳亀丸”に田地一町三反余を譲った記録も残っている。しかし、天正年間(1573〜1592)の頃には、大村家の支配下にあり、澄清の子孫にあたる東新兵衛と新助兄弟は、度々攻め入る深堀軍の長崎攻撃に対し、大村軍として参戦。天正8年(1580)、深堀勢が攻め来る際、出陣同所東口で諌早勢と戦い、よい働きをし領主 長崎甚左衛門を救ったとして、その折に、感謝状とともに「東」性を賜わっている。

さて、そんな三重地区の最大の特徴は、大村藩領(前身は幕府領)の中に佐嘉藩領が飛び地という形で相給していたところにあり、その当時の“くにざかい碑”が、風化しつつも未だ現存していて、往時の面影を今に伝えている。

本来、深堀家は佐嘉鍋島家に従属していたのだが、一族の中には大村家に使える者もいたため、佐嘉、大村両藩の間で藩境紛争が勃発。宝暦2年(1752)に和談が成立すると、藩境に塚を築くことになったという。そのときの記録が『絵図裏書証文之覚』という書物に残り、そこには「境塚都而(すべて)弐拾弐」と記され、以下「内舫(もやい)塚三、大村御領塚五、佐嘉領 塚四、堅石捨テ」とある。つまり、その今から約260年前に設置された藩境碑の一部が今も現存しているということだ。

三重漁港から三重川を少し上り「山王橋」から入ったところに三重小学校、その向かいに三重支所がある。この三重支所の玄関先に藩境碑を見つけた。「従是 東南大村領 西北佐嘉領」とあるが、正式にはここより数十m離れた場所に建っていたらしい。



そして、まさに大村藩領の中の飛び地であった佐嘉藩領の“樫山地区”へ。そこには当時の長崎の様子を物語る数々の伝説が残されていた--。
 

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