栄誉市民の功績に触れる!

長崎公園入口に胸像が建つ、田口長治郎氏は島原市生まれ。島原中学校から農林省水産講習所へ進み水産学を学び、第二次大戦中から戦後にかけ水産関係の会社へ入社。その後、衆参両院を通じ25年の議員活動を行う中で、水産関連の法律制定、改正に関わり、全国各地における水産振興の基礎を築いた人物だ。また、原爆被災後の戦災復興や都市の近代化の推進にも大きく貢献された。 口癖は「なるほど!」だった田口氏のこの銅像は、昭和50年(1975)、水産関係の多くの団体によって建立されたもの。


田口長治郎氏胸像

炭鉱労働者出身として労働運動に入り、生涯を通じ一貫して地方第一線の労働運動家として活躍した今村等氏。日本鉱夫総連合会中央執行委員・日本労働組合同盟中央執行委員などの要職を歴任し、長崎市議・県議を務めた後、衆議院議員として、国政に参画。労働運動の発展を通じ、公共の福祉増進と地方自治・国政に貢献をされたとして栄誉市民の称号を顕彰された。

大正15年(1926)4月以来、54年間、人間性豊かな情操を養う女子教育の第一線で活躍され、この間、長崎・東京・鹿児島に純心女子学園を創立し、私学の振興に多く貢献した女性江角ヤス氏。彼女は、自らの原爆被災の体験から、日増しに高齢化し、今なお原爆の後遺症に苦しむ老人への奉仕を願い、純心聖母会を設立。恵の丘原爆ホームなどを建設して社会福祉の増進にも大きく貢献した。

昭和28年(1953)3月、自由党初の女性参議院議員として国政に参画した西岡ハル氏は婦人代表として婦人参政権運動に尽力した女性。周知の通り、夫は衆議院議員、『長崎民友新聞』『佐世保民友新聞』社長、長崎県知事を務めた西岡竹次郎氏であり、代議士・西岡武夫氏の母上である。遺家族・引揚者・その他恵まれない方々への施策、売春防止法の制定、児童福祉施設などの整備促進を図った。また、昭和59年(1959)、『長崎民友新聞』と『長崎新聞社』が合併し、ハル氏は要職を歴任し、辞任するまでの約20年間、地方文化の向上と地域の振興に貢献した。72歳の折には、勲三等宝冠賞を受賞。それから6年後に逝去。葬儀は長崎新聞社社葬として執り行われ、多くの人が参列した。


昭和26年(1951)4月から連続6期、24年間もの間、長崎市議会議員として市政発展に寄与した住田政之助氏。国際文化都市・広域産業都市建設の推進に大きく貢献された住田氏は、長きにわたる市会議員の任務期間、実に連続3期12年間に渡り市議会議長を務められた。円滑な議会運営を行うために不可欠な、円満な人格と卓越した識見には敬服の外はない。また、多年にわたり社会福祉関係団体の要職にあって、社会福祉の増進にも務められた。


昭和26年(1951)4月から1期4年間長崎市議会議員、その後4期16年間長崎県議会議員として、市政発展のため寄与した小林ヒロ氏は、戦後の混乱期にいち早く婦人会を結成し、多年にわたり婦人団体の要職を歴任した女性。豊富な経験と卓越した指導力で、婦人の地位向上に多く貢献した。また、原水爆禁止運動にも積極的に取り組み、今日の平和推進運動の基盤確立に尽力された。
前ページでも紹介した調来助氏は、昭和17年(1942)、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授に迎えられ、昭和20年8月9日の原爆による壊滅的状況の中で、被爆者の救助・治療にあたられた医師。その後も被爆者の検診を行うなど医療や研究に取り組まれた。原爆症の調査・研究を通じて被爆者行政の推進に尽くした功績は本当に大きい。

調来助氏
長崎を代表する有名人であるさだまさし氏は、平成16年に顕彰されている。昭和47年のデビュー以来、長崎にちなんだ曲を数多く作ったこと、また、長崎を題材にした小説の出版、その映画化によって全国に長崎市を広く紹介した偉業は大きい。また、昭和62年から長きにわたり毎年8月6日に開催した無料の平和コンサート、平成10年に就任した「長崎ブリックホール」の名誉館長としての役割、さらに平成15年には「ながさきピースミュージアム」を開館し、世界へ平和を発信し続けている。文化、産業、経済の振興発展にこれからも尽力されることに期待したい!

ピースミュージアム

最後に---。一昨年に亡くなられた松田�彊�氏は、長崎市観光協会(現 社団法人長崎国際観光コンベンション協会)や長崎伝統芸能振興会の会長、長崎商工会議所会頭などを多年に渡り務められた人物だ。長崎市の観光・文化・経済の発展に残された功績は大きい。長崎市だけではなく、長崎県観光連盟会長も歴任されるなど、長崎県の発展にも貢献された。
 
 
平和を求め、奔走した
2人の偉大なる女性

明治32年(1899)、島根県斐川村に生まれた江角ヤスは、大学在学中に『キリストに倣いて』という本に出会い、人生観が一変。25歳で洗礼を受ける。後に女子教育事業を始めるための視察としてフランス・イギリス・イタリアの各国へ留学し、実際に純心女子学園を創立させた女性。当時、カトリックに対する偏見も多い中、「奉仕」というキリスト教の教えを実践。社会福祉施設に奉仕する人材養成の必要性から、長崎県の保母養成事業の先駆けである純心保母養成所も設立している。8月9日、一瞬のうちに校舎は焼失、214名の生徒が犠牲となりヤス自身も被爆したが、この日、飛行機の燃料となる松ヤニの採集に三ツ山へ来ていて、難をのがれた。のちにヤスはこの丘がなかったら純心は復興しなかっただろうと「恵の丘」と名付ける。「純心の復興は原爆のため亡くなった生徒達へのせめてもの供養」と、ヤスは殉難者となった生徒達の代わりに、年老いた両親や原爆孤老の方々への奉仕のためにと「恵の丘」に原爆ホームを建設したのだった。
一方、江角ヤスの誕生から一年後の明治32年(1900)に、長崎で誕生したのが、小林ヒロ。美術教師の小林長太郎氏との間に8人の子どもに恵まれるが、長男を原爆症で死なせ、婦人会員達とともに平和運動へと立ち上がっていった。敗戦を迎え、荒れ果て、見るに耐えかねる校舎を前に、ヒロは、「今こそ子どもに良い教育を与えたい。それなら子どものために予算を使えると言いうる場へ出よう」と市議会議員になる決心をしたという。「原水禁運動」の先駆者でもある彼女は、他地区の「地婦連」が次々と原水爆禁止運動から抜けて行っても、「赤といわれようと、黄色といわれようとやる」と、気迫で前進したのだという。周囲に、「平和運動は女がしっかりしなければ!」そう思わせる、そんな気迫に満ちた女性だったのだ。

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