ここ一番!の神だのみ
実力発揮を願う合格祈願

【諏訪天満宮の合格満点凧(はた)】
今年も1月某日、風頭山で“合格天満”と書かれた連凧が大空に舞った!
これは、諏訪神社の本殿右奥に鎮座する、諏訪天満宮の絵馬形の凧。20年程前から、受験生の間ではひそかに噂となっている祈願凧だ。天満宮といえば、言わずと知れた菅原道真公を祀った学業の神様。諏訪天満宮では、毎年12月末、受験生やその両親などが志望校合格を祈願して奉納。お祓いを済ませた後、1月に天高く揚げられ受験の合格祈願を行うのが通例となっているのだ。五角形(五角=合格)で受験合格、天満を逆に読んで(満点)と縁起を読んで、その名も「合格満点凧」。実力が発揮できますように! 受験生の願い、天まで届け!


合格満点凧


諏訪天満宮

【孔子廟の孔子の合格祈願札】
また、ランタンフェスティバル期間中にぜひ訪れてほしいのが、これぞ長崎の中の中国!と呼ぶにふさわしいこのスポット。海外で唯一、中国人の手によって建立された儒教の祖である孔子の霊を祀る孔子廟だ。ここでは、生涯門弟とともに勉学に励み「学問の神様」と称される孔子『合格祈願』お札を手に入れられる。大成殿で線香、またはロウソクを購入して参拝した人の中で、希望する受験生またはその家族、友人などに配布。すでに一部の受験生などには浸透していて、毎年オーダーがあるらしい!このお札、中国の孔子本廟(山東省曲阜)と長崎孔子廟で修祓されたもの。福と書かれた封筒は、中国のいい伝えで逆さまにして飾ると福が舞い込むといわれている。受験生の机の前にぜひ!

孔子合格祈願札
※ 2003.1月ナガジン!特集『長崎の中の中国!長崎孔子廟』参照

【JR九州長崎地区のお守り砂】
昨年から受験生にお守りを無料配布しているのは、JR九州長崎地区の各駅。列車の車輪の空転防止(滑り止め)に使う砂を入れた特製お守りは「受験で滑らないように」との思いが込められている。このお守りは、学問の神様、菅原道真公を祀った松森天満宮にて、すでに各駅長さんらが合格祈願をしたもので、長崎駅ホームにも松森神社の賽銭箱を設置した出張出願所が設けられている。受験生本人の決意表明はもちろん、家族、友人が受験生を応援するメッセージを記入する応援絵馬設置ボードある。この絵馬と賽銭箱は2月28日まで置かれ、その後は松森天満宮に奉納されるそうだ。配布は長崎、浦上、諫早、大村の4駅のみどりの窓口と、長崎駅隣のJR九州旅行長崎支店の窓口。数は3000個を用意しているが残りわずか。早めに入手しよう。


お守り砂



絵馬
 

長崎っ子の必須アイテム
水難から身を守る肌守り
【水神神社の黒札】
そう!昭和47年(1972)の閉鎖まで、夏休みの水泳道場として市民に親しまれた、長崎初の海水浴場、鼠島(ねずみじま)に行く子ども達が胸にした守りこそ、かつての長崎っ子の必須アイテムだった水神神社のお守り、黒札だ。
このお守り、上の方はかすかに「水神宮」と読めるが下の方は解読不能。 13代神官、渋江さんによると「私の父の代の時でも、すでにこんなふうに何が書かれているかわからないものでした。そして、この印鑑も河童文字といわれ、文字は判読できないんですよ。昔は、これを小さく折ってお守り袋に入れ、ご家族がねずみじまに渡る期間中、子どもさんに持たせていたんですよ。この神社の祭神である兵統良神(ひょうすべらかみ/俗称・川太郎という河童)が、川や海の災いから、守ってくれるんです。」 先日も五島から船乗りのご主人を持つ奥様が、黒札を求めに参拝されたそうだ。 こちらのお守りはすべて手作り。黒札も代々伝わる版に墨を塗り、一枚一枚仕上げていくのだ。


黒札


河童文字の印鑑

「お参りされ、希望された方にお配りしています。」と渋江さん。 思いを込めた手作り札は、神前で祈願され、さらに家族や知人の願いも込められて、誰かが身につける肌守りとなる。
境内にあるかえるの形に似た河童石(どんく石)には、河童にまつわる伝説が残る。このどんく石の頭を丑三つ時に撫でると、「かえる」といういい伝えもあり、戦時中、戦地に招集された方々は、人知れず訪れ祈願したという話もあるそうだ。
※ 2007.8月ナガジン!特集『古写真にみる遠い昔の長崎名物』参照


手作りの黒札


河童石

伝説! 祭神ゆかりの河童石(どんく石)
水神神社は、大正時代に現在地に移るまでは、中島川の中流、高麗橋より上手の八幡町にあった。水道や水源池とてない昔は雨水のみが頼りで、日照りが続き農作物が育たなくなると、「雨乞い」の行事が水神神社で行われていた。この頃は、神官が水神に祈りをささげ、「どんく石」(長崎弁でどんくとは蛙のこと)と呼ばれるこの石の表面に自生している苔の色や状態を見て降雨を占ったという。当時、中島川は清流で、付近の人々は川の水を飲料水にも利用していた。しかし、時代がくだり人家が多くなるにつれて汚物を川に流したり捨てたりしたため、川が汚れてきた。 清流でしか住めない河童は生活ができなくなり、たびたび付近の人々にいたずらをするようになったため、水神神社の2代目神官渋江公姿(しぶえきんなり)氏が、5月の吉日を選んで河童を神社に招き一晩中いろいろと御馳走することにした。神官渋江氏の家は、むかし、河童族を統率していた栗隈王(くりくまおう)の家柄。だから河童達も渋江氏には一目おき、敬服していた。それで、その晩には多くの河童達が集まってきて、神官を囲んで朝まで賑やかに宴が続いた。献立には必ず「竹の子の輪切り」が出されたが、このとき、神官にはやわらかい本物の竹の子を盛り、河童達には老い竹の輪切りを盛ってあったので、平気でうまそうに食べている神官を見て、「人間というものは、何と歯が強いのだろう」と驚き、ますます敬服した。以来、河童達は人間にいたずらすることもなくなり、神官とも親しくなったという。そして、神社のお祭りの供物が必要なときや、客人があって御馳走をしたい時には、その前日「河童の献立」と書いた紙に必要な品名を書いて、神官が「どんく石」の上にのせておくと、翌朝には要求したとおりの新群な野菜や魚などを河童達が乗せていた。それ以後、「どんく石」は、人々によって「河童石」と呼ばれ親しまれるようになったというお話。

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