●ルート●土佐商会跡→(車で3分)→鉄道発祥の地→(車で5分)→小菅修船場跡→(5分)→女神大橋→(8分)→三菱重工史料館 (見学時間を含め最短120分)
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長崎でこの日本の近代化に一役かった人物といえば、開国1年目の安政6年(1859)、大志を抱き長崎に乗り込んだ貿易商人・トーマス・B・グラバーだろう。そして、長崎を代表する近代産業といえば、造船業。造船業といえば、三菱重工長崎造船所。ということで、その創始者である土佐藩出身の岩崎彌太郎が登場する。
グラバーは赴任してきた彌太郎をさっそくグラバー邸に招き、商談に取りかかったのだとか。金策に、蒸気船や武器弾薬の買い付けに、さらには海援隊の活動支援にと力を注いだ彌太郎は、いわば経済官僚担当。グラバーなどの外国商人を相手に武器の輸入をしたり、土佐の物産の輸出をしたりとビジネスを展開していった。石碑には小さく「海援隊発祥の地」とも書いてある。日本初の株式会社、亀山社中は慶応元年(1865)の結成から2年後、坂本龍馬が隊長となり海援隊と改称。土佐藩に付属する外郭機関として土佐屋敷の中に土佐商会も置かれていた(正しい場所はもうひとつ先の西浜町電停前(角地)付近)。 ナガジン!「あの人が愛した長崎」参照 ナガジン!「真昼の銅座巡遊記」参照
この三菱重工長崎造船所の前身は、安政4年(1857)に幕府が設立した日本最初の船舶修理工である長崎鎔鉄所(後に製鉄所と改称)。
明治3年(1870)、土佐藩士達により九十九商会(後に三川商会、三菱商会と改称)が設立され、彌太郎はその監督という形で海運事業に乗り出した。これが三菱の出発点。明治17年(1884)、三菱が明治政府から長崎鎔鉄所を借り受け、3年後に買い上げ、それ以来、船舶や発電設備などを生産していくこととなったのだ。 一方、文久3年(1863)、グラバー24歳の時、敷地9500坪という広大な敷地に豪邸を設けた。
余談ではあるが、彌太郎の長男である三代目久彌の時代、グラバーは技術導入など三菱の国際化路線のアドバイザーとして久彌を助けていたが、その際、キリンビールの前身であるジャパン・ブルワリーの設立にも参画した。ご存知の方も多いと思うがキリンビールの麒麟がたくわえたヒゲはグラバーがモデル! お口にする機会があれば、ぜひ彌太郎とグラバーの物語を思い出しながら一杯どうぞ!
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