今回の次兵衛岩巡礼は、9月16日(日)、外海・神浦地区の恒例イベント、「神浦散歩未知(こうのうらさんぽみち)」の2日目に決行された。参加者は道先案内人である山崎さんを含めたガイドの方が3名、一般巡礼者18名の総勢21名。

外海公民館前に集合し、まずは車で次兵衛岩入り口まで移動する。
到着すると、すぐに山崎さん達から用意された藁ひもと竹杖を配られる
はじめて参加する方々は、ちょっとこれにビビらされた。
「え〜っ!どんな路歩くの〜!?」。

すかさず山崎さんが後方を指差し解説。
「次兵衛岩はあそこに見える山中にあります。直線距離だと1km程なんですが、沢に沿って歩いていくと3kmぐらいあります。」



藁ひも2本を靴に結び、竹杖を手にいざ出発!

先頭を歩く山崎さんに続き、一同、期待と不安を胸に落ち葉が敷き詰められたなだらかな坂の山道に入っていく−−。



黒崎地区の代々敬虔なクリスチャン一家に誕生した山崎さんが、キリシタン史跡を自分の足で地道に探し当て発信するという活動を行うきっかけとなったのは、当時の黒崎教会の丸尾神父様のこんな言葉だったという。

「家庭祭壇に祈る際、せっかく祈るのでれば、先祖一人一人の名前を口に出して祈りなさい。」

その時、山崎さんは唖然とした。両親、祖父母まではわかるけど、それ以前はわからなかったのだ。すぐに役場へ走り自分の先祖について調査し始めた。そして山崎さんは入手した戸籍や除籍を元にすぐさま家系図を作成。


さらに、家系図と黒崎教会の沿革史を照らし合わせると、決して遠くはない先祖がキリシタン迫害時代に生きていたことがわかったのだという。

この事実に言葉では言い表せない衝撃と感動を覚えた山崎さんは、外海町に点在するキリシタン弾圧時代の史跡について調べ、それを多くの人に伝える活動をはじめた。そして昭和58年(1983)、山崎さんはこれまでも噂だけは存在していた“次兵衛岩”と呼ばれる洞窟を約8年の歳月をかけ山深い山中に発見したのだ。


ソロソロと湧き水が流れる沢の飛び石をまたぎ、ゴツゴツした大きな岩を飛び越え、ほとんど手が加えられていない慣れない山道を下る。そして、時に不安を、時に感動をおぼえながら、この山奥に隠れ込んでまで人々を救う道を選んだ、次兵衛神父の心情に想いを馳せる。



路とは呼べない転がる石の上を、足場を確認しながら一歩ずつ進む。やがて沢に出ると、比較的安定した通路を確保できた。
周囲には江戸末期から大正時代まで炭焼き場として使用されていたという石垣が点在する。



30分程歩いたところで、少し広めの足場を見つけ1度目の休憩。
山崎さんが次兵衛岩を見つけるに至った経緯を話してくださる。

「次兵衛神父が宣教のために身を隠していたという岩は明治時代から隠れキリシタンの古老達によって守られていたと伝えられていました。しかし古老達の記憶から確かな所在が薄れていたんです。私は古老達から聞いた話をもとに友人とともに何度となく山に入り、この整備されていない山道を歩き回りました。最初は今のルートを見つけることができず、もっと遠回りをしていたので、戻れないんじゃないかというくらい迷いましたよ。」


そして、
「ここまでは序の口、さぁ、行きましょうか。」
その声を聞いて一同身を引き締める。
湿った落ち葉と石の交じった路を踏みしめるように進んでいくと、まるでラズベリーがかかったデザートのような、見たこともないキノコが出現!

土の感触、水の音、そして名も知らぬキノコ。決して楽なハイキングコースではないが、自然に包まれる解放感を感じる。


鬱蒼と茂った木々を見上げると、所々陽の光が差し込んでいる。
深山に身を隠し人目を避け伝道を続けていた次兵衛神父もまた、このように空を仰ぎ見ることがあったに違いない。


また30分程進んだところで2度目の休憩をとる。
沢ガニがお出迎え。



さて、これからが難所続きのクライマックス! 再び、身も藁ひもも引き締めがんばろう!

次兵衛神父が大捜索されるに至ったのは、幕府がキリシタンを壊滅させるために出した「市民は、十字架やロザリオ、メダイの代わりに、仏の絵を首にかけよ」という命令に長崎市民がいっこうに従わなかったためだという。不審を抱いた長崎奉行所は、秘かにキリシタンたちを指導している宣教師がいることを確信し、密告者には莫大な懸賞金をかけ厳しく探索したのだそうだ。しかし、まさか無学な馬丁を装い、奉行所の目を盗み伝道を続けていたとは考え及ばなかった。
そして俊敏なトマス次兵衛神父は、いち早く姿をくらました--。

その時、次兵衛神父は「信者の中で働く宣教師は、今や自分ただ一人。多くのキリシタンたちのために、できるだけ長く、生きながらえねば!」と決意。山の間の僻地に隠れて洞窟で雨露をしのぐ日々を重ねながら、その洞窟から出ては福音を説き、新しい信者を獲得するために奔走したという。

長崎奉行は次兵衛が姿をくらましたことから、探している宣教師が彼ではないかと疑い、確信的な情報を得たため指名手配が行われた。キリシタンではない絵師にキリシタンだと偽らせ、キリスト教の話を聞きたいと次兵衛神父に接触。似顔絵を書いて多くの写しを作らせ町々を捜索。なかなか見つからないところへ、次兵衛が外海の山奥の洞窟に隠れていると奉行所に密告があった。そこで奉行所は佐賀、平戸、大村、島原の四藩に命令をだし、西彼杵半島全域の大山狩りを決行。大村藩では15歳から60歳までの男子は全部動員されるという異例の大捜索だったという。そして、35日間しらみつぶしに捜索したが捕らえることはできなかった--。

おそらく、この今来た路も、捜索の人々であふれかえったことだろう。

やがて前方に石を積んだ祭壇の上にマリア像が安置されたルルドが見えてきた。


このルルドは、勇気と忍耐をもって登ってきた巡礼者への感謝と、休息のために安置されたもの。渓谷から湧き出た冷たい清水で手を清め、喉の乾きを潤す。

ここで「もしかして次兵衛岩に着いた?」と一瞬気を抜いてはいけない。これから約5分、急な上りの路なき路、正真正銘の難所をくぐり抜けなければ目的地、次兵衛岩へは辿り着けないのだ。途中でシャッターを押すことはできず断念。なんとか登ると、正面に写真で見ていたものと同じ大きな岩が立ちはだかっていた。



いよいよ今回の巡礼者21名、全員が無事次兵衛岩に到着した。
岩の正面右側に奥行き4m程の空洞がある。第一陣が入ろうとすると、中から2匹のコウモリが飛び出してきたため、一斉に悲鳴が上がった。

入り口は極めて狭く、大人が身を屈め這ったような体勢で入らなければならない程のもの。入っても立ち上がることは不可能で、一番奥の1mは寝転んでやっとといった高さだ。




「長崎奉行所に追われた次兵衛神父は寛永11年(1634)にここへやってきて、この岩に身を隠しました。私が発見した時は祠など隠れキリシタンであった先祖によって守り通されてきた崇敬の証がはっきりと残されていました。これは私がはじめてこの岩を発見した日に、その感動を詠んだものです。」
山崎さんは、そういって句が刻まれた陶板を見せてくださった。


戸根の奥くみ教之諭し
古の鍔の十字架胸深く
追れて忍ぶ次兵衛の岩

一九八三年十一月二十三日
史跡探訪記念
外海 山崎



今回、山崎さんにとっては通算314回目の巡礼となった。そして、今日の巡礼者を含め、山崎さんの案内で訪れた人数はこの21年間で約3750人にものぼるという。


山崎さんが家系図を作成したあの日から約30年の月日が過ぎた時、平成6年(1994)から行われてきた次兵衛神父を「福者」にする列福運動における一般の物的証人の代表に山崎さんが選ばれ、前教皇ヨハネ・パウロ二世に直接報告する大役を得た。そして遂に来年、長崎において列福式が行われることになったのだ。

「これまでの活動はまるで神様から動かされていたようだと思うんです。そしてそれはローマに続いていたんだなぁーと。」

山崎さんや外海史跡保存会の方々が調査し守り継いできた外海の遺産が、今日本の聖地となりつつある。この町を愛し、その魅力を無心で伝え続けてきたその歳月が、ひとつの答えに辿り着く日は近い。

『先駆者 先祖の足跡を訪ねて』
パスカの里史跡顕彰会発行。山崎さんが当時の文献を調べ現場へ足を運びまとめた1冊で次兵衛岩のことも詳しく記されている。外海を熟知するには最強のガイド本。インターネットにて販売中。
http://www6.ocn.ne.jp/~pascha




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