どの街を訪れても観光スポットや公園の片隅などで様々なモニュメントを目にするもの。それらは郷土が誇る偉人や、歴史上のドラマに関するものが大多数。そういう意味で長崎の地にもたくさんのモニュメントがありそうだ。 そこで、いざ!モニュメント探しの旅!


ズバリ!今回のテーマは

「モニュメントは長崎の歩みそのものパート2」 なのだ



モニュメントを探しながら街中をぶらり歩く。すると見つけたモニュメントひとつひとつにもやっぱり長崎の街の歩みが反映されていることに気づかされる。するとあら不思議! 3つのテーマに分類することができたのだ。前回では「鎖国以前〜明治の近代化編」と題し、現在の長崎、いや日本文化の基礎を築いたといっても過言ではない人物や出来事に関するモニュメントに着目し紹介した。今回はそれに引き続き、長崎特有の歴史ともいえる「信仰編」と、決してあの日を忘れてはいけないという思いから建立されている「平和編」のテーマに沿ったモニュメントを紹介していこう。

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南蛮貿易と共に長崎に伝わったキリスト教
多くの信者の血が流れた丘、辛苦の迫害と奇跡
後世に伝えたい!長崎の信仰の歩みと哀史!

◆Pick upモニュメント信仰編

・ ルイス・デ・アルメイダ長崎布教記念碑(夫婦川町 春徳寺前 map 1) 1569年 長崎最初のトードス・オス・サントス教会建立
・ 日本二十六聖人記念レリーフ(西坂町 西坂公園内 map 2)慶長元年(1597※太陽暦)二十六聖人西坂の丘で殉教
・ 信徒発見レリーフ(南山手 大浦天主堂内 map 3)元治2年(1865)信徒発見
・ サンタ=クララ教会堂跡(大橋町 大橋電停近く map 4)
・ プチジャン神父(南山手 大浦天主堂内 map 5)明治17年(1884)プチジャン神父帰天
・ 信仰乃碑(本尾町 浦上天主堂内 map 7)明治6年(1873)明治政府がキリシタン禁制の高札を撤去
・ ド・ロ神父(西出津町 出津文化村内 map 6)大正3年(1914)ド・ロ神父帰天
・ ローマ教皇ヨハネ・パウロ鏡ぁ米郢骸蝓‖膠催啓臚夏癲∨榿町 浦上天主堂内 map 8、9)昭和56年(1981)ローマ教皇ヨハネ・パウロ鏡ね荳


長崎の信仰の歴史に沿って、それに関わる記念碑に触れていくことにしよう。元亀元年(1570)、福田浦に代わるポルトガル貿易港として開港された長崎港。翌元亀2年(1571)から本格的にポルトガルとの貿易が始まり、長崎は国際貿易都市として発展していった。この開港以前の永禄10年(1567)、布教のために長崎の地に足を踏み入れた宣教師がいた。ポルトガルのリスボン生まれのルイス・デ・アルメイダだ。アルメイダは医学を学び、外科医免許を取得後、貿易商人として天文21年(1552)に27歳の時に来日した。大分では乳牛牧場を付設した育児院を建て、間引きされる乳児の救済事業を起こし、貧民やハンセン病患者救済のための府内病院を建て、自ら外科医として務め、日本人に初めて西洋医学を教えるなど、多くの人々に深い愛を持って社会福祉活動を行った。しかし、イエズス会員の医療行為禁止の命によってその後は布教活動に専念することになり、永禄4年(1561)から博多、平戸、鹿児島、生月島で布教。翌永禄5年(1562)には、横瀬浦港で長崎港を開いたキリシタン大名・大村純忠と契約を結び、島原、口之津に教会を建立。永禄9年(1566)、五島、志岐での布教後、翌年長崎に入り、領主長崎甚左衛門にキリスト教の布教の許可を得て、布教活動を開始した。そして、甚左衛門が提供した小さな寺院を改装して永禄12年(1569)、小さいながらも美しい長崎最初のトードス・オス・サントス教会を建立した。
アルメイダの布教後、長崎におけるキリシタンの数は1,500人だったという。驚くのは、この布教の間、アルメイダは単なる修道士だったということ。天正8年(1580)、マカオに戻り、はじめて司祭となって再び来日。翌天正9年(1581)から天草地区の院長として晩年を過ごした。長崎に初めて建てられた小さな教会、トードス・オス・サントス教会跡、夫婦川町の春徳寺前には、このアルメイダの功績をたたえ大理石でできたルイス・デ・アルメイダ長崎布教記念碑が石垣にはめ込まれている。

ルイス・デ・アルメイダ長崎布教記念碑

この頃、大村純忠の娘を妻にもらい大村氏と協力関係にあった長崎甚左衛門純景は、諫早西郷氏や深堀氏に度々襲撃され、そのたび純忠の援護を受けていた。そこで軍事的にも有利であると考えた純忠と甚左衛門は、天正8年(1580)、長崎と茂木をイエズス会へ寄進した。これを機に、開港以前、すでに祀られていたと思われる諏訪、森崎、住吉の三社をはじめとする市中の社寺は破却され、長崎の町はキリシタンの町へと化したのだった。さらに浦上も天正12年(1584)から4年の間イエズス会領となり、キリスト教のもうひとつの中心となった。4人の少年使節がポルトガル船にのり、ローマに向かったのも同年。8年後に帰国した彼ら天正遣欧使節団は、印刷、音楽、絵画などの西洋文化を日本に持ち帰り紹介した。しかし、天正15年(1587)、秀吉は国外退去を命じ長崎をイエズス会から没収、茂木、浦上と共に直轄地とした。そして、壮絶なキリシタン迫害と殉教の歴史が幕を開ける。慶長元年(1597)12月19日、秀吉の命によって宣教師を含め26名が長崎の西坂の丘で十字架にかけられ処刑されたのだ。
この殉教の記念碑を建てる計画は昭和24年(1949)、聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭の時に高まり、聖地保存会とイエズス会によって進められ、昭和37年(1962)、二十六聖人列聖100周年祭にあたり記念館と日本二十六聖人記念碑が建立された。横17m、記念碑は、高さ5.58mの花崗岩の台座に等身大の二十六聖人のブロンズ像がはめ込まれている。中央の6名が宣教師、その左右に日本人信徒20名が祈りを捧げながら聖なる最期を遂げた姿が表現されている。殉教の瞬間、天を仰ぎ賛美歌を歌っていたため、わずかに口が開いているのにも注目しよう。最年少の茨木ルイスは、十字架の上から群衆の中で泣き悲しむ母に慰めの言葉をかけ昇天。また、右から6人目、両手を広げたパウロ三木は、周囲を取り囲む約4,000人もの群衆の前で、最期の教えを説いたのだという。



日本二十六聖人記念碑

その後、徳川幕府になった当初はキリスト教に寛大だったため、長崎の町の指導者もほとんどがキリシタンであるなど、キリスト教は発展。トードス・オス・サントス教会の建立後、岬のサンタマリア教会、ミゼリコルディア本部教会、サン・ラザロ教会、サン・パウロ教会など13もの教会が建設された。しかし、長崎に建てられたこれらの教会のほとんどは慶長19年(1614)の禁教令で破壊されることとなった。
徳川幕府は島原の乱を鎮圧した後、ポルトガル船の来航を禁止。貿易をオランダと中国に限り、港を長崎だけに制限して鎖国の時代に入っていった。また、寺請制度で市民を仏教の寺に所属させる一方、踏み絵を踏ませてキリスト教徒を探し出し徹底的に弾圧。キリシタン達はそれでも信仰を捨てず、キリシタンの教えを伝え“潜伏キリシタン”となって弾圧の時代を生き抜いていった。なかでも外海エリアは潜伏キリシタンが多く、たびたび弾圧を受けながらも五島などに移住して信仰を守り通していった。浦上エリアの潜伏キリシタンも信仰を捨てなかった。幕末に日本が開国し、外国人居留地に外国人のための大浦天主堂が建てられた。そこで、奇跡が起ったのだ。
大浦天主堂完成から1ヶ月後の元治2年(1865)2月20日、杉本ユリら浦上の潜伏キリシタン15名が訪問。プチジャン神父に秘密を告白する。聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ワタシノムネ、アナタトオナジ(私達もあなたと同じ信仰を持っています)」と囁いた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたのだ。プチジャン神父は大喜びですぐにフランスから持参していた聖母の前まで導き、一緒に祈りを捧げたという。この全世界に驚きと感動を与えたこの出来事は、“信徒発見”と呼ばれ、長崎地方に潜伏したキリシタン達の約250年に渡る信仰の秘密が明らかになった。その後、浦上の信者達は神父の指導下に入り、日本カトリック教会が復活したのだった。国宝大浦天主堂、祭壇右手に信徒発見の一部始終を見守った“信徒発見のマリア像”が、今も多くの人々にその奇跡を伝えている。また、大浦天主堂への坂段の中程、左手には、信徒発見から100周年を迎えた昭和40年(1965)、この感動的な“信徒発見”の場面を再現した信徒発見レリーフが建立された。



信徒発見レリーフ


信徒発見のマリア像

信徒発見というこの奇跡的な出来事は、潜伏していたキリシタンにとっても大事件だった。興奮して浦上に戻ってきた信徒達は、嬉しさで黙っていることができず、すぐに口伝えで皆に伝わった。その後、他の信徒達が入れ代わり立ち代わり大浦天主堂へ見物を装って毎日礼拝に行ったという。
そして、7世代待ち望んだ神父との出会いを実現した浦上の潜伏キリシタン達は、すぐに教理(キリスト教の教え)を学ぶために浦上村の4ケ所に秘密教会をつくった。藁葺き屋根の人家同様の外見、堂々とは礼拝できず遠くから拝んでいたと想像される秘密教会で、大浦天主堂の巡回教会として密かに神父を迎え、洗礼を受け、教理の勉強をした。秘密教会跡(聖フランシスコ・ザべリオ堂跡、聖ヨゼフ会堂跡、聖マリア会堂跡、サンタ=クララ教会堂跡)中のひとつ、サンタ=クララ教会堂跡は、慶長8年(1603)、ポルトガル船の船員達の寄付によって建てられた教会跡。弾圧によって元和5年(1619)に建物は破壊されたが、その後も浦上の潜伏キリシタンの信仰の支えとなってきた。信徒発見から100周年を迎えた記念に、秘密教会跡4ケ所に記念碑が建てられた。サンタ=クララ教会堂跡記念碑は現在、国道206号線大橋電停のそばに建てられている。


サンタ=クララ教会堂跡


秘密教会ができても、禁教令は解かれていないため、浦上の信者は次々と検挙されていった。明治2年(1869)、「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧を受け、3,394名の信者が捕らえられ、名古屋以西の20藩22か所の流配地に送られた。
プチジャン神父がこの事実を知ったのは、バチカン公会議出席のために出向いていたローマ滞在中。彼は長崎に戻り信徒の釈放に奔走。明治16年(1873)、諸外国の圧力で禁教令が解かれると、信者達は、浦上に戻ることをゆるされ、はじめてキリシタンの信仰が公認された。浦上の信者達は、この4年の出来事を「旅」と呼んでいる。長崎の町に密かにキリスト教を信じる者がいると期待し大浦天主堂の建立に尽力した後、奇跡の「信徒発見」の場面に遭遇。禁教が強いられた長崎の町で、秘密教会に巡回し教理を授け、流配された信者の釈放に奔走したプチジャン神父。日本カトリック教会の復活とその後の組織作り、日本司祭養成に力を注いだ彼の功績をたたえ、大浦天主堂の石段左手、信徒発見のレリーフの奥にプチジャン神父像が建てられている。

プチジャン神父像

浦上四番崩れによって3,384人の浦上信徒が全国20藩に流され、彼らは約6年間もの辛苦を味わった。明治6年(1873)、世界の世論に屈した明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去する。迫害に苦しみ、流配先で660人が殉教。しかし、163名の新たな命も生まれていたという。長く苦しい日々に耐え、浦上の信徒達は“旅”から帰ってきた。天主堂入口前にある信仰乃碑は、信仰を守り抜いて帰郷した信徒達が公教復活50年を記念して建てた浦上の信徒達の“信仰の証”だ。


信仰乃碑


プチジャン神父と共に長崎に上陸し、潜伏キリシタンの復活を助けた人物が今も外海エリアで「ド・ロ様」と敬い慕われているド・ロ神父。彼はフランスヴォスロール生まれでノルマンの血を引く貴族。明治の解禁後、外海や五島の数々の教会建築を指導して煉瓦や木造の日本風教会を建てた。現在、世界遺産への登録が期待されている教会群の多くが分布する五島エリアの教会堂を手がけた上五島出身の鉄川与助が取得した洋風建築技術は、ド・ロ神父からの影響が大きかったという。ド・ロ神父は赴任してくると布教はもちろんのこと、同時に地域住民の福祉と生活向上のため、様々な計画を立て農漁業両面に力を注いだが、その日本での事業のほとんどは彼の私財で賄われたもの。外海の人々を支え抜いたド・ロ神父は、結局一度も帰国することなくこの世を去ってしまった。


ド・ロ神父像
現在、ド・ロ神父が困窮を極める村人達を救うため設立した授産場(後の旧出津救助院/国指定重要文化財)横、ド・ロ神父記念館前には、神父のブロンズ像が建っている。神父の腰もとに抱きついた小さな男の子を、暖かい眼差しで見つめるド・ロ神父。彼のすばらしい人柄と、偉大な業績への感謝の思いがこの銅像に表現されている。見るものを和やかな心にさせるすばらしいモニュメントといえるだろう。

そして、大浦、浦上の両天主堂には、昭和56年(1981)に来崎したローマ教皇ヨハネ・パウロ鏡い龍餐が建てられている。胸像自体は同じもので、台座に刻まれた碑文が異なる。大浦天主堂には「ここは日本の新しい教会の信仰と殉教と宣教の原点です〜修道女たちになされた御訓話の一節」、浦上天主堂には「私は、栄光と悲劇の跡をとどめている歴史の町、この長崎を訪れ、栄光を勝ち取り悲劇を乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話できることを神に感謝します。私は大きな愛情と、この地方教会の素晴らしいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって、皆さんにご挨拶の言葉をのべます〜25日の説教の冒頭のお言葉」と刻まれている。“自ら巡礼者として長崎を訪れた”といった教皇の言葉の中に、改めてこの長崎の地が、特有のキリシタン史を持ち奇跡の復活を遂げた聖地であることを実感する。


大浦天主堂の
ローマ教皇ヨハネ・パウロ鏡ち


浦上天主堂の
ローマ教皇ヨハネ・パウロ鏡ち


※2002.2月ナガジン!特集『シーボルトも歩いた道』参照
※2002.7月ナガジン!特集『祈りの道筋・寺院と教会が立ち並ぶ風景』参照
※2003.3月ナガジン!特集『国宝・大浦天主堂』参照
※2004.3月ナガジン!特集『浦上カトリック信徒と聖地巡礼』参照
※2005.1月ナガジン!特集『爽快ドライブ2〜祝!長崎市 夕陽が美しい隠れキリシタンの里・外海』参照
※2005.11月ナガジン!特集『越中先生と行く 二十六聖人が通った道〜浦上街道』参照
※2007.2月ナガジン!特集『越中先生と行く 長崎、開港以前』参照


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