<爆心地公園内にある旧浦上天主堂の遺構>

日本にキリスト教が伝来して400年余り。
長崎におけるキリスト教の歴史は、
禁教令により迫害を受けた多くの人々の悲しみと苦しみの歴史でもある。
なかでも浦上地区の信者達の苦しみは特別なもの。
今回は長年にわたり浦上天主堂の世話役をされていた西田秀雄さんに、
浦上天主堂や周囲にある巡礼地、また様々な裏話をうかがった。


ズバリ!今回のテーマは
「浦上信者の厚い信仰心のルーツに迫る!」なのだ



西田秀雄さん
プロフィール●
青年会長から教会顧問(現経済評議員)、共助組合理事長など、長年に渡り浦上教会(天主堂)の世話役を務めてこられた方。大正3年(1914)生まれ、30歳の時に住吉で被爆。今年90歳になられる。


●浦上信徒の信仰を支える
 アンジェラスの鐘

早朝5時半、浦上天主堂の右手の鐘楼に吊るされたアンジェラスの鐘の音が6時のミサを告げる。
浦上地区に住む人々にとっては時を知らせる時計でもあり、また、信徒の皆さんにとってはこの鐘の音は、信仰の支え、一日の活力の素ともいえる。

「今日は何か祝い事ですか?」
他県の信徒の方が朝のミサにあずかった際、西田さんに尋ねられたそうだ。
浦上天主堂では毎朝200人程の信徒達がミサにあずかる。
その敬虔(けいけん)な信徒の姿と聖堂内の荘厳な雰囲気が、他県の信徒を驚かせる言葉となったのだろう。

壮絶な迫害を受けながらも信仰を守り続けた先祖の遺志を受け継いだ姿。
浦上地区のカトリック信徒には、二重の苦しみともいえる迫害と原爆に遭い、信仰をより強固なものにした苦難の歴史があるのだ。



それでは、長崎、そして浦上地区におけるキリスト教の歴史の流れを交えながら、西田さんの貴重な話をうかがうとしよう。




●長崎にキリスト教上陸!
 浦上はキリシタンの村へ


西田さんが生まれたのは大正3年(1914)。ちょうど未完成のまま浦上天主堂の献堂式が挙げられた年だ。
それからさかのぼること約350年の永禄10年(1567)、宣教師アルメイダによって長崎におけるキリスト教布教がはじめられた。
そして、それから2年後には早くも長崎最初の教会堂、トードス・オス・サントス教会(夫婦川町・現春徳寺)が建てられる。その頃の信徒数は約1500人。
元亀元年(1570)、ポルトガル貿易港として開港されると、さらに市中には多くの教会が建ち、さらに天正8年(1580)、長崎6ケ町と茂木がイエズス会に寄進されイエズス会領になると、長崎は日本におけるキリスト教の中心となった。
そして、天正12年(1584)には浦上村もイエズス会に寄進され、浦上村は長崎と共に戦国時代の末頃からキリシタンの村となる。




●キリスト教禁教令と
 日本二十六聖人殉教

天正15年(1587)、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、宣教師を追放、教会を破壊させ、長崎・茂木・浦上を没収して直轄地とした。
慶長元年(1596)に京都で捕らえられた宣教師や日本人信徒達26人が長崎の西坂の丘で殉教するという悲惨な大事件が起こった。
しかし、この頃はまだ長崎の信徒達に対する弾圧ははじまっておらず、約13の教会が建てられていた。実際は平和の内にキリスト教が発展していき、慶長19年(1614)には信徒数約3万人にものぼったという。



●長く厳しい弾圧のはじまり
 浦上信徒も数々殉教


同年12月、幕府が再びキリシタン禁教令を発布。
長崎布教から約50年、このキリシタン禁教令によってキリスト教の歴史は大きな局面を迎えることになる。
長く厳しいキリシタン弾圧の時代がはじまったのだ。
日本のキリスト教の中心となっていた長崎の教会は破壊され、宣教師は追放。役人の目を逃れて潜伏していた宣教師や信徒は次々に捕らえられ、記録にあるだけでも600人以上の人々が西坂の丘で殉教していった。
浦上地区でも多くの殉教者が出た。住民全てがキリシタンだった浦上村で、見せしめのため中心人物の1人である本原郷(現石神町)の百姓、ジワンノジワンナ夫妻とミギル親子が殉教したのもこの頃(ベアトス様の墓)。
そんな中、中野郷林の孫右衛門が、帳方(ちょうかた)、水方(みずかた)、聞役という秘密の指導組織を作り、キリシタン達は厳しい弾圧をしのぎながら潜伏して幕末までの7世代約250年信仰を伝承した。




●大浦天主堂創建が引き起こした
 奇跡的出来事「信徒発見」

安政の日仏条約によって長崎が開港されフランス人が上陸すると、日曜日に礼拝する教会が欲しいと願い出た。そこで1865年(元治2)、南山手の丘に西坂で殉教した26聖人に捧げる大浦天主堂(正式名称/日本26聖殉教者天主堂)が建てられた。大浦天主堂はフランス人のために造られた外国人専用の教会なので、当時は“フランス寺”ともいわれていたが、主任司祭であるプチジャン神父は教会の正面に日本語で“天主堂”と書いた。もしかしたら日本人信者の存在を意識していたのかも。

そして、完成から1ヶ月後の3月17日、杉本ユリら浦上の潜伏キリシタン15人が訪問。プチジャン神父に秘密を告白する。
聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ワタシノムネ、アナタトオナジ(私達もあなたと同じ信仰を持っています)」と囁いた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたのだ。
プチジャン神父は大喜びですぐにフランスから持参していた聖母の前まで導き、一緒に祈りを捧げたという。

これをきっかけに長崎地方に潜伏したキリシタン達の約250年にわたる信仰の秘密が明らかにされ、神父の指導下に入り、日本カトリック教会が復活した。
この出来事は信徒発見と呼ばれ、全世界に驚きと感動を与えた。


『信徒発見のマリア像』
大浦天主堂

西田さん「きっと身ぶり手ぶりで神父に伝えたんでしょうね。興奮して浦上に戻ってきた信徒達は、嬉しさで黙っておれなくてすぐに口伝えで皆に伝わったそうです。そしたら大変です。他の信徒達が入れ代わり立ち代わりフランス寺の見物を装って毎日礼拝に行ったそうですよ。」


◆check! check! 信徒発見の奇跡が起こった大浦天主堂

浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂に出向き起こった、「信徒発見」という世界的発見の歴史を目撃したマリア像は、現在も大浦天主堂正面に向かって右側の祭壇に見ることができる。

そして、大浦天主堂の入口正面に置かれている美しいマリア像は、信徒発見という世界のキリスト教徒を感動の渦に巻き込んだ歴史的奇跡を記念してフランスから贈られたものだ。


『日本之聖母像』大浦天主堂

大浦天主堂は現在は国宝のため、クリスマスミサとこの信徒発見の日のミサしかとり行なわれていない。信徒発見の3月17日には19:00から大浦天主堂でミサがとり行なわれる。ミサの時間は拝観無料。




大浦天主堂
●問い合わせ/カトリック大浦教会095-827-0623


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