今年3月、新たに復元された5棟(水門、カピタン部屋、乙名部屋、三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋)の建物情報に加え、その建造物を利用した人物にも注目! 復元されつつある19世紀初頭の出島は、発見と驚きに満ちあふれている!


ズバリ!今回のテーマは

「知られざる出島の一面と、そこに住んだオランダ人エピソードに迫る!」
なのだ




まずは、出島に住むオランダ人と
長崎の町人に思いを馳せてみよう!

中国、ポルトガル、オランダ、ロシア、イギリス、アメリカ……。古くから貿易港としての役割を果たしてきた長崎は、文化、食、言語、もしかしたら人々の気性まで、様々な異国人の影響を受け、現代の長崎文化が築かれてきた町。なかでも江戸時代の長崎は幕府直轄の貿易港で、鎖国を続ける日本の中で唯一西洋へ開かれた窓“出島”を擁し、国内においていち早く、しかもダイレクトに海外文化を吸収できると、全国から多くの遊学者が訪れる先端の町だった。
直接オランダ人にゆかりがあるわけではないのに、“オランダ坂”と名づけられた坂は、長崎屈指の観光名所。
「何もない、ただの石だたみの坂じゃないか!」とがっかりする観光客も多いというが、その命名秘話は、長崎の人々がいかに出島に住んだオランダ人の影響を受けたかを物語るにはうってつけのものだ。

“〜安政6年(1859)、出島和蘭商館が廃止され、その後長崎港は開港。するとトーマス・グラバーに代表されるようにイギリスをはじめとした諸外国の貿易商人達が長崎に移り住んだ。出島から程近い東山手、南山手がその外国人達の居留地に定められ、居留地エリアにはたちまち領事館、商社、外人バーに教会が立ち並び外国人街を形成した。南山手にある国宝大浦天主堂は、そんな外国人達のために建てられた教会堂。しかし、この大浦天主堂より一足早く、東山手の丘に日本で最初に建てられたプロテスタントの教会堂『英国聖公会会堂』があった。
現在、オランダ坂と呼ばれているのは、活水学院下の坂と東山手洋風住宅群横の坂。しかしかつては居留地にある坂全てをオランダ坂と呼んでいたという。日曜毎にこの教会堂へ向う外国人達が通っていた坂道なのでオランダ坂。それはそうと、なぜオランダなのだ? そう!長崎の人は、長い間出島に住み、少なからず長崎の人々と接触があったオランダ人の影響で、居留地時代になっても東洋人以外の外国人をずっと“オランダさん”と呼んでいたというのだ。つまりオランダさんが通った坂で“オランダ坂”というわけ。〜”


オランダ坂

出島に和蘭商館が置かれていた218年の間には、オランダ人と長崎の人々の間で、何らかの交流があったということだろう。

もちろん、長崎の町人が出島に入ることには厳しい規制があったし、それは出島のオランダ人も同様だった。
しかし、丸山や寄合町の花街から小舟に乗って出島へ渡る“オランダ行き”の遊女達は、オランダ人の男性は……なんて話や、一緒に食べた西洋料理や飲み物、もらった贈り物などを町の人々に教えて聞かせるだろうし、長崎の氏神様・諏訪神社の秋の大祭である長崎くんちが始められた寛永11年(1634)から20年後の承応3年(1654)。

初めて大波止のお旅所の頭上にVOC文字が染め抜かれた幕(オランダ幕)が張られた桟敷席で見物した和蘭商館員達は、日本文化を目の当たりにして、自国に帰ればその詳細を話して聞かせただろう。現に元禄3年(1690)に商館医として来日したドイツ人のケンペルは、長崎くんちをヨーロッパに初めて紹介した。そして、出島和蘭商館の中で働くのはオランダ人だけではなく、オランダ人の身の回りの世話をする黒人の下僕や日本人の地役人、さらにはオランダ船の荷役に関わる日雇い労働者達がいた。

川原慶賀筆『唐蘭館絵巻・宴会図』
(長崎歴史文化博物館蔵)

時代によって異なるが出島和蘭商館のスタッフは、おおかた次の通り。
【オランダ人側の構成】
最高責任者のカピタン(商館長)、ヘトル(商館長次席)、貨物管理の責任者の荷倉役、会計総括の計算役、筆者頭(上筆者)、書記(筆者・下筆者)、医師、バター製造人や鍛冶屋などの諸工員、オランダ人の身の回りの世話をする東南アジア系の人など。多い時でも15名程度が住んでいた。

【日本人側の構成】
出島乙名、阿蘭陀通詞、抜荷(ぬけに/密貿易)を監視する探番(門番)、料理人、出島から自由に出ることができないオランダ人に変わって日常品などを買ってきてあげる買物使。その他草切、火用心番などいろんな役職の人がいた。

彼らを通じ、オランダ人と長崎の人々が何らかの繋がりを持ち、また、親交を深めていったのだろうか?


続々復元されつつある
19世紀初頭の出島!

出島は寛永年間から安政の開国まで、何度も火災に見舞われ、再建を繰り返した。19世紀の出島の建築物は日本的な外観であったが、内部の細かな装飾は西洋的なものも見られたそうだ。その後オランダ風の西洋館が立ち並ぶように変化していったという。ただ、200年余りに及ぶ長い出島の歴史の中で変わらなかったのは、外回りと約4000坪の敷地面積。そして、陸地に面した出入り口に架けられた“出島橋”だけだった。
その“出島橋”にいたのが、探番。密かに商品を持ち出したり持ち込んだりしてはいないか……出入りするものを厳しく取り締まった。
そしてもうひとつ、出島の出入り口が、この春に完成した長崎港に面していた水門だ。この門は、表門より重要な役割をもつ出入り口だった。そう! 商品が運び込まれる門がここ。オランダ人からしてみればこの水門こそが表玄関だったのだ。
復元された水門は、現在西側入場口メインゲートとなっている。停泊した貿易船と、この出島を往来した数々の貿易品が最初に出入りした象徴的建物だ。



水門

この水門には通り口が2つ。南側は輸入用、北側は輸出用に使われていた。船がバタビアから着き、長崎奉行の役人の目前で行なわれる荷下ろしの時以外は開かれることはなかったそうだ。現在、水門の一部は、国道の歩道にかかる位置にある。つまり、石段状の桟橋も路面電車が走る国道の下というわけで、発掘すると石段がみつかるのではないか?と推測されている。
さて、水門跡である西側入場口を通り内部へと入ってみよう。水門からの道には石が敷かれていて、この石は乙名の住居前(乙名部屋は業務の前まで)と、そこから北へ曲がった場所にある庭園の入口までで、それ以外の道は土の道だったという。水門から続くメインの道沿いには、すでに第鬼工事(2000年完成)で復元された5棟のうち、ヘトル部屋、一番船船頭部屋、一番蔵、二番蔵があったが(残り1棟は料理部屋)、今年春に完成した第挟工事で、二番蔵横に三番蔵、その隣に拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)、二番蔵と三番蔵の向いにカピタン部屋(2ページへ)、その後ろに乙名部屋(3ページへ)が復元された。
一番蔵は、ローズ、二番蔵はチューリップと名づけられていたというが、今の春復元された三番蔵にもオランダ人達によってアンニェリール(ピンクのカーネーション)という名前がつけられていた。ここは二番蔵同様の砂糖倉庫。現在、復元された三番蔵では、当時の倉庫の様子を再現している。
また、その三番蔵の隣には拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)があり、ここには帳簿などの筆記を行なうオランダ人の書記の長が住んでいた。現在、復元された拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)では、出島から入ってきた蘭学を紹介している。

三番蔵

拝礼筆者蘭人部屋
19世紀初頭の出島は、水門近くのカピタン部屋や主要商品の倉庫などがある西北地区が核心部分で、東南部は菜園や脇荷物の倉庫、豚や牛の飼育舎、花畑など食料の保管に関わるエリア。また、陸地に隣接した表門近くの区域が火事や機密漏れを警戒して空地となり、その反対の長崎港側に職住一体の建物が密集して建ち並んでいた。

出島全景


現在の西北地区



現在の東南部

現在の出島では、史跡西側を“復元ゾーン”とし、復元建造物10棟において「日蘭貿易」と「出島での生活」をメインテーマに、当時の代表的な輸出入品の紹介や商館員の暮らしぶりを再現している。また、史跡東側は“交流ゾーン”。出島和蘭商館廃止後、明治期に建てられた旧出島神学校や旧長崎内外クラブにおいて、当時のゲームなどができる体験展示室、出島関連商品を販売する売店(2ページへ)、そして……出島発の長崎の味が楽しめる期間限定!喫茶レストラン(3ページへ)を展開している(〜10月31日“長崎さるく博’06”期間中予定)。
さて、今回の第2期復元工事を終え、19世紀初頭の出島のまた新たな一面が見えてきた。ぜひ、各棟に立ち寄りながら、出島に関する様々な疑問を解決していこう!

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