文・宮川密義


【三和】
三和町は昭和30年(1955)に為石(ためし)、川原(かわはら)、蚊焼(かやき)の3村が合併して誕生した町です。
長崎半島の真ん中にあり、以前は農漁業の町の性格を持っていましたが、長崎市に隣接していることから住宅団地が造成され、都市近郊の町、勤労者の町に変わりました。
この町には周囲2舛梁腓な「川原大池」があり、釣り場としても知られます。海岸のすぐ近くにあり、フナ、ヘラブナ、ブラックバスなどの淡水魚と、ボラ、ハゼなどの海水魚が雑居しています。ヘラブナの数は減りましたが、今でも関東や関西方面の釣り客に人気があります。
大池に隣接した川原海水浴場は昔から親しまれ、大池のほとりではキャンプも楽しめる自然豊かな町です。
ところで、全国に「さんわ」とか「みわ」と名の付く町村が6つあり、その町や村が手を携え、地域を活性化しようということになり、昭和62年(1987)から「全国三和サミット」が毎年開かれました。
サミットでは友好姉妹提携を結び、「全国三和住民憲章」も制定。スポーツや学習、物産展などで交流を深めてきました。
歌では民謡の「川原(かわら)まだら」が平成15年(2003)に約50年ぶりに復活、伝統文化の分野で新たな息吹が始まりました。


釣り客にも人気の川原大池


川原大池に隣接した川原海水浴場

1.「川原(かわら)まだら」(民謡)



平成15年、43年ぶりに復活した
「川原まだら」
(サン・サン・さんわフェスティバル)

「まだら」は九州地方から日本海の海岸沿いに北回り船の船乗りたちによって伝えられ、「まだら」の名も佐賀県鎮西町の馬渡島(まだらじま)からきたともいわれています。
「まだら」は「めでためでたの若松さまよ 枝も栄える葉も繁る」と七七七五調の単純な歌詞を長く引いて歌う婚礼、新築祝、祭礼などの祝唄です。
「川原まだら」は別掲3種の歌詞を祝いの内容に応じて選んで歌いますが、基本は最初の「祝い目出度(めでた)の若松様よ…」で、一つの歌詞を「エーエエーエー エーエエーエー」と母音に当たる産み字を長く引き延ばしながら、三味線の伴奏で4分ほどかけて歌います。
川原では昭和30年代初めごろから歌われなくなっていましたが、平成15年(2003)に「川原まだら保存会」が設立され、同年の「サン・サン・さんわフェスティバル」で披露、43年ぶりに復活しました。
さらに昨年(平成16年)9月には、「まだら」の本場、石川県七尾市で開かれた日本民俗音楽学会で保存会の皆さんが実演し、注目されました。


2.「もぐら打ち唄」(民謡)


三和町為石(ためし)の岡地区に残る民謡です。
“もぐら打ち”は正月の4日や15日に行われる豊作祈願の全国的な行事で、一般には子供たちがワラを堅く縛った槌で土を叩きながら歌って歩きます。
歌としては“わらべ唄”の部類に入っていますが、三和町の岡地区では子供でなく大人の行事として残っており、歌も「胴突唄(どうつきうた)」が変化した民謡となっています。



端島、高島に面した岳路海岸


3.「蚊焼の子守唄」(民謡)


三和町蚊焼(かやき)では昔、小学校を卒業した女の子は新しい着物を買ってもらって、2年ほど子守り奉公に出されていました。その子守り奉公のつらさを歌ったのが「蚊焼の子守唄」です。
五島の「岐宿(きしく)の子守唄」も過酷な“三年奉公”を歌ったもので、切々とした旋律で有名ですが、この「蚊焼の子守唄」は素朴な中にも悲哀を感じさせる歌です。
なお、蚊焼には「カラスじょうよ カラスじょうよ なしてくびゃーなぐる…」と歌うもう一つの子守唄。
さらに為石には「おどまこのいが いつまでおきろ 盆の十五日のその日まで ヨイヨイ…」と歌う「為石の子守唄」もあります。


4.「三和町音頭」
(昭和57年=1982、山本佳樹・作詞、深町一朗・作曲、古場常幸、古場美弥子・歌)


昭和57年(1982)前後には県内各地で音頭や小唄が作られました。特に57年には自治体が企画した歌が6曲、個人の自主制作を合わせると15曲がレコードになっています。
三和町でも歌詞を公募して「三和町音頭」と「町歌」を制定しました。入選作は審査員が話し合いながら一部を補作し、長崎の音楽家深町一朗(ふかまち・いちろう)さんが作曲しました。
深町さんは当時、市町村の歌の作曲を一手に引き受け、歌手は地元の人を起用してレコード化を進めていました。
諫早の古場常幸(こば・つねゆき)さんと、古場さんのいとこの古場美弥子(こば・みやこ)さんが歌っています。


レコードの表紙
踊りの振りも付いて、盆踊りや運動会などで踊られてきました。
「三和町町歌」(村上宗明・作詞、深町一朗・作曲)は長崎の会社員、田中久之(たなか・ひさゆき)さんが歌い、合わせてレコードが作られました。


【野母崎】
野母崎町は昭和30年(1955)に高浜(たはかま)、野母(のも)、脇岬(わきみさき)、樺島(かばしま)の4つの村が合併して誕生しました。
長崎半島の先端にあり、三方を五島灘、東支那海、天草灘に囲まれた風光明媚な町です。特に亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)は県民憩いの場として親しまれ、冬場は1,000万球もの水仙が咲き誇る水仙公園に多くの人が訪れています。
特産品はカラスミを始め、かまぼこ、いりこ、丸干しなど海の幸が豊富です。
野母崎町には全国に知られる民謡があり、全体に歌や芸能を大事にしている町でもあります。

5.野母盆踊り唄「ちゅうろう」(民謡)


長崎県の無形民俗文化財に指定されている「野母浦まつり」は8月13日に催されますが、漁師だけの祭りではなく、町の人たちが参加する大漁、豊作、商売繁昌を祈願するカーニバルとなっています。
祭りでは多くの歌がセットになった古式豊かな「催馬楽(さいばら)」の歌に乗って踊られます。「催馬楽」は鎌倉時代から伝わる宮廷歌謡の一つ。その中の代表的な歌が「ちゅうろう(中老)」で、「文書き」など18種類があります。
「ちゅうろう」は麦ワラで作った編み笠をかぶり、着流しに舞扇を持って円陣を組み、歌と太鼓に合わせて、ゆらりゆらりと優雅に踊られる恋唄です。


野母浦まつりの「ちゅうろう」
昭和50年(1975)に口伝の歌詞が整理され、「人に心」「見るも」「はっちゅうし」の3曲が「野母盆踊り唄」として、初めてLPレコードに吹き込まれました。レコードでは地元の小柳平次さんと松尾玄次さんが歌っています。


6.「樺島ハイヤ節」(民謡)


野母崎では民謡の「樺島ハイヤ節」「樺島さのさ節」「樺島磯節」などが保存、継承されています。
なかでも「樺島ハイヤ節」はすたれた時期もありましたが、愛好者によって復活し、保存会も出来ました。今ではパワーのある歌と踊りで人気を集め、町の活性化の一翼を担っています。
ハイヤ節のルーツは明確でなく、熊本県の牛深だ、鹿児島県の阿久根だ…と“本家争い”が続いています。長崎県では平戸の田助港で発生、潮待ち風待ちの船乗りが田助の宴席で覚え、北や南に歌い伝えて根付かせた…というのが定説となっています。
樺島は昔からイワシ漁でにぎわい、多くの船が参集、風待ち潮待ちの港として栄えました。そこで田助から運ばれたハイヤ節が、樺島らしい独特の歌詞が付き「樺島ハイヤ節」になったとされています。

権現山展望公園から見た脇岬海水浴場(手前)と樺島


7.「野母崎音頭」
(昭和44年=1969、池田誠一郎・作詞、木野普見雄・作曲、葵ひろこ・歌)


長崎国体が開かれた昭和44年3月に「野母崎音頭」と「野母崎町町民歌」のレコードが作られました。「野母崎音頭」の作詞は地元の池田誠一郎(いけだ・せいいちろう)さん。作曲は長崎の木野普見雄(きの・ふみお)さん。
ひところは盆踊りなどでよく歌い踊られていましたが、お盆には県の無形民俗文化財に指定されている「ちゅうろう」が踊られ、元気な「樺島ハイヤ節」にも押されて、音頭は影が薄くなったため、町役場は平成12年(2000)に2曲をカップリングしてCDを作り、普及に努めました。
2番の歌詞に出る「とのぎゃん」は前述の「ちゅうろう」と同様、野母浦まつりの踊りで、大太鼓と鐘が合奏する勇壮な舞いです。


1,000万株の水仙が咲く水仙公園


亜熱帯植物園「サザンパーク野母崎」


8.「野母崎の夜」
(昭和58年=1983、馬津川まさを・作詞、中山治美・作曲、青江三奈・歌)


長崎バスの運転手、馬津川(まつかわ・まさを)さんが運転席から見える野母崎の景観を観光に役立てようと作詞し、長崎の音楽家・中山治美(なかやま・はるみ)さんが作曲しました。その後、東京の音楽事務所が注目、昭和49年(1974)、新人歌手・貴多(きた)かおりの歌でレコードになりました。
野母崎には民謡は沢山ありますが、歌謡曲は初めてとあって、町の観光協会や商工会などが協力、発表会も開かれましたが、歌った貴多かおりが間もなく引退したため、あまり知られないままに終わりました。
ところが、10年後の58年、「長崎ブルース」でヒットを飛ばした青江三奈(あおえ・みな)の手に渡り、青江の希望で再度のレコード化が実現しました。
青江にとってはミリオンセラー「長崎ブルース」から12年目。46年の「長崎未練」を挟んで3曲目の長崎ものとあって、第二の「長崎ブルース」を目指してキャンペーンにも熱を入れ、各節最後の「野母崎、野母崎、野母崎…」のリフレーンも野母崎を強く印象づけました。



夕日が美しい黒浜海岸の夫婦岩


貴多かおりのレコード表紙



青江三奈のレコード表紙


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