文・宮川密義

長崎観光は“蝶々夫人ゆかりの地”グラバー園が柱になっていますが、その“蝶々夫人ブーム”ともいえる現象が見られたのは昭和8年(1933)でした。
アメリカ映画「マダム・バタフライ」が公開され、映画にあやかって演劇、音楽分野にも続々と“蝶々夫人もの”が登場します。
歌では同年の「お蝶夫人の唄」を皮切りに次々にレコードが出て、ブームに拍車をかけました。
以下、ヒット曲の中から5曲を紹介します。


グラバー園に建つ蝶々夫人の三浦環像

1.「お蝶夫人の唄」
(昭和8年=1933、西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌)




昭和8年1月早々、コロムビアはライバル(ビクター)の看板作詞家・西条八十(さいじょうやそ)さんと、自社の看板作曲家・古賀政男(こがまさお)さんにコンビを組ませるというショッキングな企画を発表、世間をアッと言わせます。
その“百万ドルコンビ”第1作で、5月に発売されました。
歌ったミス・コロムビアは同年3月「浮草の唄」でデビューしたばかりの覆面歌手。
本名は松原操(まつばらみさお=のちの霧島昇夫人)さん。
アイマスクを掛けた覆面写真に「これは誰でしょう」のというキャッチコピーで宣伝、話題を集め、歌もヒットしました。
戦後、長崎復興に観光が第一と考えた文化関係者が“グラバー邸はお蝶夫人ゆかりの地”のお墨付きを与えた際、この歌も有力な材料になりました。


昭和25年春、グラバー邸で
「お蝶夫人の唄」の舞踊
(藤間勘美智さん)を見る
長崎の文化関係者

2.「お蝶夫人の唄」
(昭和11年=1936年、サトウハチロー・作詞、大村能章・作曲、東海林太郎・歌)




ミス・コロムビアの歌と同じタイトルですが、発売はその2年後。
歌う東海林太郎(しょうじたろう)さんは、昭和9年の「赤城の子守唄」が大ヒットした後、「旅笠道中」「野崎小唄」「お駒恋姿」などを相次いで人気を集めることになりますが、「お蝶夫人の唄」は上り調子の時期の、味わい深い歌です。


東海林太郎さんの
「お蝶夫人の唄」 の歌詞カード

3.「マダム・バタフライの唄」
(昭和8年=1933、西条八十・作詞、佐々紅華・作曲、淡谷のり子・歌)

ミス・コロムビアの「お蝶夫人の唄」にカップリングされ、こちらもよく聴かれました。





4.「長崎のお蝶さん」
(昭和14年=1939年、藤浦 洸・作詞、竹岡信幸・作曲、渡辺はま子・歌)




昭和14年といえば、ノモンハン事件や国民徴用令公布、物価統制令実施などで、次第に戦争気分が燃え上がっていました。
パーマネント、ダンスホールも禁止され、米や砂糖、マッチまで配給制の時代です。
代用食が叫ばれてカボチャやジャガ芋が主食になりました。
『ぜいたくは敵だ』の合言葉の下に、耐乏生活を強いられていた国民の耳に、日本離れしたこの歌のメロディーが強い印象を与えました。
平戸出身の詩人、藤浦洸(ふじうらこう)さんが明るい蝶々さんのイメージで、長崎をアピールしました。


渡辺はま子さんの「長崎のお蝶さん」
のレコード・ラベル

5.「長崎の蝶々さん」
(昭和32年=1957年、米山正夫・作詞、作曲、美空ひばり・歌)




美空ひばり(コロムビア)さん、江利チエミ(キング)さん、雪村いづみ(ビクター)さんの『3人娘』共演の映画「ジャンケン娘」が大当たり。
その余勢でできたのが「大当たり三色娘」ですが、この歌は美空ひばりさんがその映画の中で歌ったものです。
この歌がヒットした頃、グラバー邸には観光客が押し寄せ、“お蝶夫人ゆかりの地”の人気に輪をかけました。
そしてこの年、グラバー邸は持ち主の三菱長崎造船所から、創業100周年の記念に長崎市に寄贈され、その後「グラバー園」として整備され、今日に至ったわけです。


美空ひばりさんの「長崎の蝶々さん」
のレコード・ラベル)

*蝶々夫人を題名の歌は20曲を超える
なお、蝶々夫人を題名にした歌は「恋の蝶々」(昭和11年、日本橋きみ栄)、「お蝶哀詩」(昭和24年、津村謙)、「お蝶夫人」(昭和45年、都はるみ)、「お蝶夫人」(昭和53年、二葉百合子)なども合わせて20曲を超えます。
題名になくても、歌詞や曲にはさまざまな形で取り入れられており、1,500曲を超える長崎の歌の中で、かなりの数にのぼりそうです。



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