発見!長崎の歩き方

「ジャガタラ文とお春の人生」


鎖国令以降、外国人と日本人との間で生まれた子どもたちが、南方の島・ジャガタラへと追われた。彼らが母国への思慮を綴った「ジャガタラ文」と、“じゃがたらお春”の名で知られる伝説に包まれたお春の人生を振り返る。

ズバリ!今回のテーマは
「じゃがたらお春は、哀れだったのか?」なのだ。


じゃがたらお春ーー誰もが一度は耳にしたことがあるに違いないこの女性は、長崎生まれの少女の名。生年は定かではないが、寛永に改元された頃の生まれだといわれる(寛永年間/1624~1643)。そんなお春は、寛永16年(1639)、ジャガタラ(現インドネシア・ジャカルタ)へと放流される。つまり流罪である。罪状は「外国人と日本人との間で生まれた子ども」であること、ただそれだけだった。

現在、ナガジン!で連載中の「長崎の教会群 その源流と輝き―長崎の教会群とキリスト教関連遺産を世界遺産へ―」では、キリスト教が平戸に伝来し、布教・繁栄、弾圧、潜伏を経て、新たなキリスト教へと復活するまでの歴史を詳細かつ判りやすく解説している。長崎県がキリスト教の歴史を世界遺産に値すると主張する由縁は、キリスト教が、長崎県の成り立ちと歩みに大きな影響を与えた事実、特に布教禁教時代に起こった悲惨な出来事を乗り越え、ようやく辿り着いた復活までの経過にある。特に250余年にも及んだ長く厳しい弾圧時代は、多くのキリシタンにとって苦難の連続。長崎の町では数々の悲惨な出来事が起こった。その悲劇を味わったひとりが、外国人と日本人との間で生まれたまだうら若き少女、「じゃがたらお春」だった。

今、私達はお春についてどれだけのことを知っているだろうか。お春の父はイタリア人。ポルトガル船のパイロットをしていたニコラス・マリンという人物だった。母親の本名は不詳だが、宗教名はマリヤ、キリスト教の洗礼を受けたキリシタンだった。マリヤは長崎の町が南蛮貿易で沸き立っていた慶長から元和の末にニコラスと知り合い、後に正式に結婚。二人の間には、春(はる)の4つ上のマグダレナ万(まん)が誕生し、その後お春が生まれた。ちなみにお春の宗教名はジェロニマといった。

じゃがたらお春の一生
お春のイメージを定着させた
「ジャガタラ文」

赤い花なら曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 阿蘭陀(おらんだ)屋敷に雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る

うつす月影 いろがらす 父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを ああ曇りかち ララ曇り勝ち

平戸離れて幾百里 つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る

※曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 彼岸花のこと

これは、昭和14年に制作された曲『長崎物語』の歌詞。戦前から戦後にかけて流行したこの曲が醸し出すお春のイメージは、悲運な境遇の哀れな女性そのもの。そして、口ずさむ誰もが想像するように、貧しさゆえに南方などへ遊女として売り飛ばされた、あるいは自ら出稼ぎに行った「※1からゆきさん」と混同している節が見受けられる。

この曲、また、その他多くの「じゃがたらお春」に関するどこか物悲しいイメージの根源は、ある一人の人物の創作によって固められたというのが、現在定説となっている。それは、前回の特集「長崎の工芸品~江戸時代の長崎土産~」にも登場した江戸中期の天文家であり、地理学者の西川如見(にしかわじょけん)、その人。彼は隠居してからは著述に専心し多くの著書を手掛けた。享保5年(1720)に発刊した彼の代表作『長崎夜話草(やわそう)』巻一には、当時の長崎土産ほか、さまざまな長崎の風物が取り上げられている。そして、その第一章に「紅毛人子孫遠流之事付ジャガタラ文」という文章が掲げられている。


長崎夜話草「紅毛人子孫遠流之事付ジャガタラ文」の件『長崎叢書』より

そして如見は、追放された女性のうち、14歳の少女・お春を取り上げ、流されたいきさつとともに、彼女の「ジャガタラ文」を掲載している。

如見が記したいきさつを要約すると以下のようになる。
「ポルトガル同様、イギリスやオランダもキリスト教を信仰する国なので、今後、日本人との混血を禁止するため、寛永16年(1639)、平戸と長崎に住む紅毛(こうもう)(イギリス・オランダ)の血統をひく11人が長崎からジャガタラに流された。ポルトガル船の来航は禁止されたが紅毛船や唐船は往来していたので、流された人達はその船に親戚や友達などへの手紙や贈り物を託した。11人の中には紅毛人の父を持つ長崎生まれのとても美しい14歳の少女がいて、彼女も度々便りをよこした。習字や読書を心得たその少女が三千里余りも離れた遠い島で綴った美しい文がとても珍しく、またとても哀れに思ったのでここに書き留める。」

遠くジャガタラに追放された長崎・平戸の紅毛の血統をひく子どもなどが、双方の国を往来する船に託し、日本に住む親戚や友達などに送った手紙「ジャガタラ文」。如見が記したお春のものの他に、平戸のコショロ、コルネリア、フクという3名の女性のもの、合わせて4通の「ジャガタラ文」が現存している。

そのうち、平戸市の平戸オランダ商館に展示されている“コショロ”の「ジャガタラ文」は、およそ20cm四方、何枚かの更紗(さらさ)を市松(いちまつ)に縫い合わせた袱紗(ふくさ)の白地部分にしたためられた珍しいもの。


コショロのジャガタラ文
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

うば様まゐる
  日本こいしやかりそめにたちいでて又とかへらぬふるさとゝおもへば心もこころならずなみだにむ せびめもくれゆめうつゝともさらにわきまえず候共あまりのことに茶つゝみひとつしんじあげ候あらにほんこいしや   こしょろ

うば様へ

日本こいしや、こいしや
ふとしたことで、日本を離れたところ、
二度と帰ることのできないふるさととなってしまい、いてもたってもいられません。
目がはれてしまうくらい泣いて、夢か現実かわかりません。
ふるさとを慕う気持ちをもって茶包を一つ贈ります。
日本こいしや、こいしや

こしょろより

はて?この図案、どこかで見たことがあるような……と思う人、正解! 長崎を代表する銘菓のひとつ、その名も『長崎物語』の包み紙に使用されているのだ。

では、『長崎夜話草』に掲載されたお春の「ジャガタラ文」を見てみよう。

 千はやふる、神無月とよ、うらめしの嵐や、まだ宵月の、空も心もうちくもり、時雨とともにふる里を、出でしその日をかぎりとなし、又、ふみも見じ、あし原の、浦路はるかに、へだゝれど、かよふ心のおくれねば、
 おもひやるやまとの道のはるけきもゆめにまちかくこえぬ夜ぞなき(後略)

そして、結びの文章は以下の通り。

あら日本恋しや、ゆかしや、見たや 。
           じゃがたら
            はるより

この冒頭部分、白石広子著『じゃがたらお春の消息』掲載の口語訳では、以下のように訳されている。

 あれは十月のことでした。うらめしく吹く風の中、夕方なのに、空も心も曇って時雨とともに故郷を出た其の日が最後だったのですね。再び手紙すら見られないほど遠く隔たってしまい、気持ちをお伝えできませんが
  お思いをする日本はとても遠くなったけれど夢の中では毎夜この距離をこえて心を通わせております(後略)

これについて、江戸時代後期の蘭学者・大槻玄沢(おおつきげんたく)、また、その門弟で地理学者の山村才助(やまむらさいすけ)も、如見の偽作を疑っている。まず、お春のものとされる「ジャガタラ文」は、3000字余りもの長文であり、時折、『伊勢物語』などから古歌(こか)などを引用し、具体的な内容に乏しく、極めて情緒的。そのあまりの美文から、わずか14歳の少女の書けるものではない、との見解を示している。

また、近代の研究者達も事実と違う点を指摘。一例をあげると、『平戸オランダ商館の日記』によれば、お春が乗船した船が出帆したとされる寛永16年10月31日は快晴だったとある。しかし、前述の如見が紹介したお春の「ジャガタラ文」の冒頭には、“うらめしの嵐”“時雨とともに”とあり、合致しない。

だが、そのように相違点も数々見られるが、宛て先は確かにお春の友人「おたつ」であるなど事実も織り交ぜられている。如見はお春より22歳年下だった。つまり、長崎において彼女に関する何らかの情報を得ていたとも考えられる。もし如見が、お春の手紙を下敷きに、世間の人々の興味を惹くような文面に創作していたとしたら--。

そう考えると、私達はお春について知らないことだらけである。生まれてから放流されるまでの長崎での人生、そして、遥か遠い南方の島、ジャガタラでの人生……お春は、果たしてこの上ない悲劇に包まれた一生を送ったのだろうか?

※1「からゆきさん」 江戸末期から第二次世界大戦時まで外地に出稼ぎに行った女性。


【次頁につづく】

発見!長崎の歩き方

「ジャガタラ文とお春の人生」

じゃがたらお春の一生
お春の人生は哀れだった?
渡海後の彼女の足跡

昭和に入ると、日本における東南アジア地域の研究が飛躍的に進んだが、戦争により研究は一時停滞してしまった。しかし、その後日本学士院会員の東京大学・岩生成一(いわおせいいち)文学博士が現地資料による研究を発表。その中には、もちろんお春が実在の人物であったことを証明する事実も……なんと、お春の遺言書が発見されたのだ。それは、まさに『長崎物語』が世に発売され、多くの人々が「じゃがたらお春」の悲哀を口ずさんだ昭和14年頃のことだった。

『長崎夜話草』では、お春が追放されたのは14歳の時とあるが、現地資料には15歳とある。やはり、お春の「ジャガタラ文」は如見の創作だったのか……。

正保3年(1646年)、11月29日、お春は、バタビア(ジャガタラ)の教会において、会社の事務員補で平戸生まれの青年、シモン・シモンセンと結婚した。彼の父は平戸の商館に勤務していたため、シモンセンが平戸生まれであるということは、母親は日本人である可能性が高く、彼もまた、お春同様の境遇にあった一人ではないかといわれている。

シモンセンは出世の階段を上りつめていき、2人は裕福な暮しを手に入れている。そして、お春はシモンセンとの間に三男四女、7人の子どもを産み、3人の孫をもうけた。

バタビア(ジャガタラ)に住む日本人は、老いたり、病気を患い余命幾ばくもないとわかると、正式な遺言書を作成するのが通常だったという。その時代の日本ではありえないことだろう。

お春の遺言書は3通あり、そのうちの第2の遺言書こそ、岩生博士が発見した遺言書。そこにはお春がこの世に残した筆跡「せらうにましるし」の仮名書き署名が記されていたという。第1の遺言書は夫婦揃って作成し、両人のうち長らえた方が最終的な遺言書を作成する旨などが書かれた。そして第2の遺言書は、夫の死後20年を経た1692年、お春67歳の時に作成。埋葬執行人の指名委任と、埋葬後の遺産の分配方法などが書かれ、また第3の遺言書は第2の遺言書の追加、補正となっている。

これら遺言書や同じく発見されたお春の子どもの洗礼書が私達に教えてくれるのは、一家の構成と、奴隷を保有し譲るべき財産のある豊かな生活を送っていたことなど、彼女が身を置いていた環境……第2の遺言書の中でお春は、自身の死後、同時に奴隷に自由を与える旨を記している。彼らの境遇に思いを重ねる部分があったのではないだろうか。

古賀十二郎著『丸山遊女と紅毛人』には、東京石井研堂氏所蔵『異国漂着集』の写本に「シモンス後家お春より峯七兵衛、峯次郎右衛門宛書面」の写しが掲載され、「右は阿蘭陀通詞今村源右衛門所持直筆写也」となっているとあるそうだ。お春がジャガタラからオランダ船に託し、長崎のおじに宛てた「ジャガタラ文」……。『長崎夜話草』に掲載された「ジャガタラ文」ほど美文ではないが、全文ほとんどが仮名書きの口語体で書かれ、真の「ジャガタラ文」ではといわれている。その手紙には、「菊の花を送って欲しい」「お酒の大樽を二つ出島の商館員に預けて欲しい」など、お春が日本のものを所望している様子のほか、お春からも多くの人にたくさんの贈り物をしていたこと、なにがしらの商売をやっていたことが伺える。その内容から、夫シモンが亡くなった後も、お春が豊かな生活を送っていたことがわかる。

じゃがたらお春の一生
「ジャガタラ文」が代弁する
故郷を離れ生きたお春の心情


筑後町界隈


聖福寺

お春が幼少期を過ごしたとされる筑後町。お春の追放後に建立された唐寺・聖福寺の境内には、自然石の「じゃがたらお春の碑」が建つ。そこに刻まれた吉井勇の句は、やはり物悲しいものである。


じゃがたらお春の碑


書はキリシタン語研究の草分けでもある言語学者・新村出によるもの

長崎の鶯(うぐいす)は鳴くいまもなお
じゃがたら文のお春あわれと

そこにはやはり、『長崎夜話草』の「ジャガタラ文」の世界観が広がる。





吉井勇の句が刻まれた碑の裏面

しかし、故郷を追われ、艱難辛苦(かんなんしんく)を味わったお春だったが、研究者達によって新たに見出された資料は、お春のその後の人生が決して哀れではなかったことを雄弁に物語っている。その事実を知り、改めて聖福寺の碑文に思いを馳せてみた。すると鶯は、当時のこの町をグッと高い位置、鳥瞰(ちょうかん)で見ていたように思えてきた。キリスト教の脅威を恐れた幕府の強攻策である禁教令、鎖国政策が生んだ混血児追放という悲劇。しかし、流罪となった人々は信仰心を忘れず、自分が身を置く場所で精一杯、自分の生をまっとうしたのである。長崎の鶯は、長崎を追われた少女の頃のお春を哀れみ鳴いた。その後、お春が逞(たくま)しく生き抜いた姿を知るすべがない。遥か南方の空の下までは見渡せないのだから--。

日本を離れ、良き伴侶、たくさんの子宝、親切な異郷の仲間、豊かな資産に恵まれた人生を歩んだお春。けれど、故郷を追放された深い悲しみがなかったはずはないのだ。

幾萬(いくよろ)づの人か、此世にむまれきたる中に、我身いかなれば異国の人の子とむまれ出でたる事も、前の世のむくひありてこそとおもひ参らせ候。しからば今さら、世をも人ももううらみ申まじき事にて御ざ候。

現代語訳
幾万の人がこの世に生まれ来た中に、どういう訳か私が外国の血をひく子供として生まれ出たのも、きっと何か前世の報いがあったのだと思うのです。そうであれば、今さら世も人も恨むことではありません。

『長崎夜話草』の「ジャガタラ文」がたとえ如見の創作だったとしても、この一節は当時のお春の心情を言い当てているような気がする。

最後に--。
悲運な境遇を乗り越え、遥か異国の地で生きた「じゃがたらお春」は、元禄10年(1697)、72歳でその生涯に幕を下ろした。後世に残るお春のものと思われるおじ宛の「ジャガタラ文」は、異国の地とはいえ、彼女が信仰を貫きながら家族と共に過ごしていた穏やかな暮らしぶりを想像させてくれる。それは、その時代に生きた日本女性が絶対に手に入れることのできなかった“自己表現に満ちた生き方”--お春の人生は、決して哀れではなかったのだ。

参考文献
『じゃがたらお春の消息』白石広子(勉誠出版)
『埋もれた歴史散歩 長崎 唐紅毛400年のロマン』田栗奎作(白馬書房)
『ジャヤガタラお春 海を越えた少女』小島笙(海鳥社)
『太陽スペシャル 長崎遊学-オランダ坂から世界が見える-』(平凡社)