発見!長崎の歩き方

「長崎の工芸品
  ~江戸時代の長崎土産~」


異国情緒を代名詞とする長崎の街には、かねてより数多くの海外文化が伝来。その文化に影響を受け、数々の工芸品が誕生した。江戸時代にもてはやされた「長崎土産」や、外国人が好んだ「輸出品」を通し、長崎の工芸品誕生秘話に触れてみたい。

ズバリ!今回のテーマは
「鍵は海外と長崎のミックスカルチャー!」なのだ。


江戸時代の長崎は職人の宝庫?
町民の暮しが伺える「職人尽」

桃山時代から江戸時代初期にかけて、全国各地で風俗画が流行し、“職人尽くし絵(しょくにんづくしえ)”が描かれた。長崎で職人尽くし絵といえば、県指定有形文化財・松森神社の「職人尽(しょくにんづくし)」。こちらは江戸中期の正徳3年(1713)、社殿改修が行われた際に製作されたものだという。本殿の瑞籬(みずがき)の欄間に彫刻、彩色された鏡板は30枚。いずれにも、腕一本で働く職人の仕事風景が刻み込まれている。


彫刻者は御用指物師(さしものし)喜兵衛と藤右衛門といわれ、下絵を描いた画家は不詳とされるが、当時の長崎奉行御用絵師の小原慶山(おはらけいざん)ではないかと考えられている。日夜雨風に晒(さら)されているため、微かに残るだけだが、彩色は天保4年(1833)、唐絵目利(からえめきき)石崎融思(いしざきゆうし)の補色によるものと推測されている。この職人風俗の精緻な描写は、歴史民俗資料としての価値はもちろん、美術品としても評価が高いのだとか。

では、この30枚に描かれた職人はどんな人々だろうか? 彫刻の上には、そのタイトルが刻まれている。

紙製造、竹細工場、菓子製造、医者.製薬人、彫刻師.真田紐製造、瓦製造、人形制作及び楽器の仕上げ、傘紙製の日本帽子鏡磨、化粧箱製造、団扇製造、衣装縫師、造船、刀槍製造、弓矢.鞍製造、鎧 弓仕上げ、機織染屋、祭器造り、建築用機師、琴 琵琶製造、碁盤製造、描画師、鍛冶屋……。

往時の長崎にはこれほどたくさんの仕事があり、職人達がいて、人々の暮しを支えていたということだろう。しかも職人達が造り出しているものは、暮しと直結するものばかりではない。菓子や人形、楽器や碁盤の製造といった趣味娯楽の分野の職人さんも数多く、当時の人々のライフスタイルに趣味娯楽がとても入り込んでいたことが伺える。

職人達が技を磨き伝承した
人気の長崎ブランド

長崎は古くから国際貿易都市として繁栄してきたことから、ポルトガルや中国、オランダなどの影響を強く受け、異国文化あふれる工芸品が造られてきた。海外に向けた輸出品として造られたものもあれば、異国情緒あふれる長崎に訪れる遊学者達に向けた「長崎土産」として製造されたものも数多い。この「長崎土産」について詳しいのが、享保5年(1720)に発刊された江戸中期の天文学者・西川如見(じょけん)が著した『長崎夜話草(やわそう)』。オランダとの貿易で活気づく長崎の代表的な土産物「長崎土産」について記されていて、その数は実に39種に上る。「南蛮菓子」「唐菓子」「線香」「天文道具」「外科道具」「眼鏡細工」などなど、それらは、一見して往時の長崎の海外交流が伺えるものばかりだ。鎖国の日本で唯一の窓口であった長崎は、いうなれば海外情報の発信基地。「南蛮菓子」、「唐菓子」などは、出島にオランダ商館が移される以前、市中に散宿し、庶民と密接な関わりを持っていたポルトガル人、中国人達との交流の証といえるだろう。

交流による伝来、材料の生産、職人の技と精神……これらが揃って工芸品「長崎土産」は造られていった。では、その背景に触れてみることにしよう

江戸時代の長崎土産
朝鮮×中国×日本
「金工(きんこう)細工」

現在、市内に残る鍛冶屋町と銀屋町の町名。これらが物語るのが、かつてこの町で発展した長崎の金工細工の存在だ。鍛冶屋町は、現在の万屋町一帯をいい、元は高麗町、つまり秀吉が朝鮮出兵の際に連れ帰った朝鮮人達で構成した町だった。時は文禄の頃だ。朝鮮人達は、慶長15年(1610)には、現在の高麗橋付近に移り、鍛冶屋町と改称。その後、鍛冶屋町は本鍛冶屋町と今鍛冶屋町に分かれ、寛文12年(1672)には、今鍛冶屋町は今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町となるなど、しだいに大きくなっていった。そして、鍛冶屋町のすぐ隣には、銀細工職人達が居を構える銀屋町が開かれた。

『長崎夜話草』には、当時の金工関係の長崎土産が記されている。まずは、土圭(時計)細工。枕土圭や根付土圭など、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国から伝わった技法を取り入れた細工品だという。他に、真鍮(しんちゅう)でできた日尺、星尺(せいじゃく)、コンパス、日時計、地球図などの天文道具や、中国風の彫り物や、ポルトガルやオランダの風俗を取り入れた器物などの真鍮細工、唐物鋳物と呼ばれる中国風の装飾が施された花入れや卓、香炉などがあった。


江戸初期の長崎を代表する唐伝鋳物師・赤星宗徹の作品『十六羅漢像』

そして、ほかに中国伝来の装飾と技術を受け継いだ日本人職人のコラボレーションで生まれた人気の輸出品といえば……。

江戸時代の長崎土産
朝鮮×中国×日本
「長崎青貝細工」

江戸時代、海外への輸出品としてさかんに作られたものの中に、漆器の技法のひとつ「螺鈿(らでん)」、長崎青貝細工と呼ばれる工芸品がある。鮑(あわび)の貝殻を薄く研ぎ出して模様の形に切り抜いたものを漆器の上に貼りつけ、その上からさらに漆を塗り重ねて最後に研いで仕上げるものだが、これは17世紀前半期に中国から伝えられたといわれる技術。『長崎夜話草』に記された塗物道具の中に「青貝」の文字があることから、すでに18世紀の前半には、長崎で多量に製作され、長崎ブランド化されていたようだ。19世紀、長崎ではヨーロッパ向けに小さなお盆などの類いから箪笥(たんす)のように大きな家具まで製作されていたが、大正3年(1914)、残念ながら青貝細工の技術は途絶えてしまっている。


長崎青貝細工


精緻を極めた細工

江戸時代、長崎青貝細工の技術を受け継いだ人の中に、長崎の漆工・生島藤七という人がいた。この職人さん、実は「長崎土産」に名を連ねる他の技術の伝承者としても名前が登場してくる……。

江戸時代の長崎土産
ポルトガル×オランダ×日本
「眼鏡細工」

眼鏡が日本に伝来したのは、天文20年(1551)。宣教師フランシスコ・ザビエルが周防(現山口県)の大内義隆へ贈ったものが最初と伝わる。当時の眼鏡は現在のそれとは様子が違い、手持ちタイプだったとか。『長崎夜話草』によれば、江戸時代初期には、長崎において眼鏡細工が行われていて、やはり長崎発祥の職人技だった。御朱印貿易家でもあった長崎代官末次平蔵政直の持ち船の船頭だった浜田弥兵衛が、外国に渡って眼鏡細工を習い、帰国して漆工・生島藤七に教えて作らせたというのだ。当時作られていた眼鏡の種類は、鼻目鏡、遠目鏡、虫目鏡、数目鏡、磯目鏡、透間目鏡、近視目鏡などなど、結構豊富な品揃え。一説には、この技術が入って間もない1660年頃、長崎には早くも眼鏡専門店が登場していたというから驚きだ。長崎で眼鏡細工が発達したのは、貿易国であるオランダがヨーロッパでも有数の眼鏡の産地だった、ということも大いに関係しているだろう。

眼鏡専門店はあったというが、往時、眼鏡はビードロと呼ばれるガラス細工の一種。ガラス専門店が商品のひとつとして眼鏡を扱うのが通常だったという。

江戸時代の長崎土産
ポルトガル×中国×日本
「長崎ガラス」

天文20年(1551)、ザビエルが周防(現山口県)の殿様・大内義隆へ贈ったのは眼鏡だけにあらず。13種の献上品の中には、ガラスの盃もあったという。以降、ポルトガルの宣教師達も信長や秀吉にもこぞってガラス製品を献上している。『長崎夜話草』に、硝子(びいどろ)とあるように、長崎ガラスの別名は「ビードロ」。その語源はポルトガル語のガラス製品の総称だ。元亀元年(1570)、ポルトガルの技術者が長崎に来て、その製法を伝えた。しかし、寛永年間(1624~1643)には中国の技術者も中国風のガラス製法を伝承。長崎のガラス職人は、それぞれの製法に従うものと双方を取り混ぜて伝える者がいて、実際に長崎で製造されるようになったのは寛永の後期から寛文の初めだという。

再び『長崎夜話草』によれば、ビードロを造る白石は他国に存在しない石で、長崎の浜辺にあるものを使用しているとある。長崎で成熟した技法は享保6年(1721)には、長崎から大坂、江戸へと伝わっていった。浮世絵師の歌麿が1792~1793年頃に描いた錦絵連作『婦女十相十品』の「ビードロを吹く女」(別名、ポッピンを吹く女)からも、当時のビードロ細工の人気が伺える。


18世紀頃に長崎で作られていた瑠璃色の冷酒用急須「長崎チロリ」は長崎ガラスの象徴的存在


【次頁につづく】

発見!長崎の歩き方

「長崎の工芸品
  ~江戸時代の長崎土産~」

天文学者・西川如見が晩年に心血を注いで著した『長崎夜話草』。1720年発刊当時、取り上げた39種の「長崎土産」に入っていないものがある。現代の「長崎土産」の代表格であるその工芸品とは……。

江戸時代の長崎土産
中国×日本
「べっ甲細工」

前ページで紹介した「眼鏡細工」が長崎で発展していったのには、眼鏡の縁に使用される、ある材料と技術が長崎にあったことも要因だったという。それは、ズバリ!「べっ甲」。べっ甲の原材料が亀の甲羅だということは広く知られているが、正確には「タイマイ」という海亀の一種。このタイマイが中国から唐船によってもたらされ、江戸時代には、日本で独自に加工されはじめた。1603年に長崎でイエズス会によって編纂された『日葡(にっぽ)辞書』には、べっ甲とタイマイの意味は別に記され、べっ甲は“亀の甲羅で作られるある種の薬”とあり、タイマイは“中国人が細工物を作る亀の甲”と記されている。長崎でべっ甲細工が発達したのは、徳川幕府の鎖国によって、長崎港のみがオランダと中国との貿易港となったことから原料を容易に入手できたためだ。そして、長崎での技法がその後江戸などへ伝えられた。今も昔も、長崎を代表する土産物であるにもかかわらず、『長崎夜話草』に記載されていないのはなぜだろう?それは、べっ甲細工があまりに高価な贅沢品で、とても一般人に購入できるものではなかったためと考えられている。『長崎港草』によると、享保年間(1716~1735)には長崎にべっ甲職人がいたとあり、酒屋町、袋町、西古川町と、いずれも中島川沿いに存在していた。べっ甲細工は、かんざしなど、主に女性の笄(こうがい)と呼ばれる髪飾りに加工。丸山、寄合両町の遊女達の漆黒の髪を彩った。しかし、長崎のべっ甲細工が最も盛んになり、長崎ブランドとして全国で認知されるようになったのは安政の開国以後のこと。外国人居留地やロシア人など、往来する外国人達の人気も集めた。そうして様々なニーズに応えていくうちに、技術、デザインともに成熟していったのだ。


べっ甲細工の原材料であるタイマイ


丸山遊女達も愛用したべっ甲のかんざし

現存する中で制作年代がわかっている最も古いものは、安永元年(1772)の「桶屋町傘鉾飾及び十二支刺繍」。『長崎夜話草』には記載されていない、伝統の技、長崎ブランドとは……。

江戸時代の長崎土産
中国×日本
「長崎刺繍」

精巧で立体的、ビードロ細工同様、長崎の氏神・諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」の傘鉾装飾や衣装でお馴染みの長崎刺繍の原点は中国刺繍。糸をより合わせて太さを変えたり、刺繍後に彩色したり、糸と生地の間に綿やこよりを入れて膨らませたりと、変化に富んだ作風を特徴とする長崎刺繍は、唐人屋敷ができる以前、市中に散宿していた住宅唐人達によって伝えられた技法のようだ。銅座の殿様、傘鉾町人としても知られる永見徳太郎が記した『長崎の美術史』によれば、当時、長崎刺繍の技術は、衣服や帯などに用いられ、掛物には、中国の伝説や山水美人をモチーフにしたものが作られていたという。また、オランダ人はこの刺繍をとても好み、国旗や軍船、山水、花鳥などを精巧に描いた長崎刺繍は、輸出品として販路を広めていった、とある。また、明治26年(1893)、安中半三郎が出版した『長崎地名考-物産部』には、長崎刺繍が幕府への献上品として栄えていったとある。

しかし、幕末から明治時代初期にかけては、外国人向けの図案で大いに売り出された長崎刺繍も次第に衰退。大正時代末期から昭和初期にかけては図案の輪郭に、わずかに金糸を使用して長崎刺繍の名残を止めた製品が生み出されたりもしたが、やがて全くその姿を消してしまった。
現在、長崎県指定無形文化財長崎刺繍技術保持者であり、唯一の長崎刺繍職人嘉勢照太氏がその技を継承。今年の長崎くんちでも、数年をかけて制作された作品をお披露目してくれるようだ。


長崎刺繍の衣装は、長崎くんちに華を添える

『長崎夜話草』発刊以降に登場した「長崎土産」は、もちろん掲載されていない。18世紀中頃から、やはり出島のオランダ人や中国人の風俗など、異国情緒に満ちた長崎風情をモチーフとした長崎版浮世絵とは……。

江戸時代の長崎土産
日本
「長崎版画」

江戸時代の木版画といえば、写楽、北斎、歌麿……世界中に影響を与えた「浮世絵」。色ごとに版を使う多版多色版画だ。そして、長崎にも江戸からその技法が伝わり、木版画の技法で表現した「長崎版画」が誕生した。人々が親しみを込めて「長崎絵」とも呼んだこの版画は、江戸中期の延亨年間(1744~48)にはじまり、天保年間(1830~44)に色摺りとなり、幕末の文久年間(1861~64)頃までの約120年間制作されたと推定されている。

洗練さや技術の巧みさなどは、浮世絵に、オランダ人や中国人の風俗や舶来品など異国的な題材と、その素朴の表現が魅力となり、長崎を往来する人々の間で、異国の風物を知ることのできる「長崎土産」として大いに喜ばれた。また、海外への唯一の窓口であった長崎での出来事、世相を反映する役割も担っていた。作者の多くは不明だが、中国やオランダに関する知識の豊富さから、絵師だけでなく唐絵目利(からえめきき)と呼ばれる輸入絵画を鑑定し、模写する役職の地役人が多かったのではないかといわれている。


長崎の風景を描いた長崎版画
「長崎八景・立山秋月」
長崎歴史博物館蔵


江戸時代の長崎土産
朝鮮×中国×日本
「亀山焼」

坂本龍馬も愛用していたことで知られる「亀山焼」。窯跡が龍馬ゆかりの亀山社中跡と若宮稲荷神社の中間地に今も残っている。もともとは、オランダ船が水甕を必要とすることから、大神甚五平という人物が文化4年(1807)に開窯。しかし、ちょうどオランダの混乱期にあたり、開窯の翌年から9年もの間、オランダ船の入港はほとんどなくなってしまった。そこで、文化9年(1812)から天草陶石を用いた「磁器」を生産。これが後に長崎ブランド「亀山焼」として賞賛をあびることとなった。

どんな商品が造られていたかというと、鉢どんぶり類、茶碗類、皿類など。1回の製作量は約1万個で、そのうち8割が染付製品の一般食器。残りの2割が精選された呉須(ごす)と呼ばれるコバルトを用いた白磁染付類のオーダー商品。それに長崎南画三筆と呼ばれる木下逸雲(長崎の八幡町生まれの南画家)、鉄翁祖門(春徳寺和尚ながら南画家)、三浦梧門ら、長崎を訪れた豊後の南画家・田能村竹田(たのむらちくでん)などが手掛けたものが、格調高い逸品として人気を博した。さらに、「オランダ船」や「ラクダ」など、長崎ならではの異国情緒満点の図柄も描かれ、長崎土産として喜ばれた。しかし、変遷を繰り返した亀山焼は、わずか60年足らずで閉窯してしまい、今や幻の焼物といわれている。


中国渡来の技、原料で人気を博した亀山焼

最後に--。
歴史に育まれた土地の個性が表現されたものが、各地の土産物。ほかにも、日本三大土人形の「古賀人形」や、明治後期に登場した「絵葉書」など、長崎の歴史やエピソード、長崎ならではの風情、異国情緒、異国趣味をモチーフに誕生した長崎土産はまだある。それらを改めて見つめ直してみると、新たに郷土愛が芽生えてくるような気がする。


古賀人形・オランダ商館長ブロムホフ夫人・ティツィアと息子ヨハネスを模した人気の長崎土産「西洋婦人」

参考文献
『ながさきことはじめ』(長崎文献社)
『新長崎市史 第二巻近世編』(長崎市)
『眼鏡の社会史』白山晰也著(ダイヤモンド社)
長崎県公式ホームページ「文化財」
「長崎刺繍」再発見塾ホームページ