vol.3 長崎港内を結ぶ「港内交通船」

「出島行き」の丸山遊女は、小舟に乗って小島川を下り出島へ――。長崎港沖に停泊した貿易船からの積み下ろし品を載せた小舟が、中島川を上る――。
江戸時代より、長崎港へと注ぐ数々の支流も重要な水上路。それは、明治、大正の時代になっても変わることなく、中国伝来の「サンパン」(中国語で小舟の意)や「団平船(だんべせん)」と呼ばれる小さな渡し舟が頻繁に往来する交通路として活躍しましたvol.2近代化!海外交流!新時代の船。現在、それらの川が、船が上り下りするようなものでないことは一目瞭然! それは同時に、今の長崎の町の多くが埋め立て地であり、港周辺はもとより、市街地および川沿いなど、町のいたる所に暗渠が存在していることを示しています。古くから繁華街として栄えてきた「浜町」も、その名に違わず元々は浜辺の町であり、往時はその周辺を流れる中島川や小島川(高平川)を、渡し舟が上り下りする、今では想像だにできない風景が広がっていたといいます。

陸路がまだまだ不便であった明治、大正時代、市民にとって身近な生活の足だったのも、やっぱり船。明治初頭から中期にかけて「三文渡し」「一銭渡し」という名の「港内交通船」が登場し人々に親しまれていきます。この長崎港内を結ぶ交通船に利用されていたのが、かねてより主に人を運ぶ船として活躍していたサンパン。長崎のサンパンは中国古来のものと大きさこそ変わりませんが、多少異なる点もありました。それは船の中程、客室の胴の部分に引き戸があり、かがんで中に入るような造りであったこと。また、半坪(1.6u)程の室内にはござが敷かれ、両側に小さな窓があったことなどです。定員は4、5人。櫓漕ぎ船でありながらも、意外に船足が速いのも特徴でした。当時、大浦川から大浦海岸、浪の平、大波止、浦上川、稲佐の各波止場方面に散在していたサンパンの数は千艘余りに及んだとも言われています。 長崎のサンパン
長崎のサンパン
写真提供:「長崎大学附属図書館」

一方、貨物運搬を専門としていたのが石炭積込用の船としても活躍した団平船。これは胴の張った、図太い、船底の浅い頑丈な船でした。日露戦争の際、長崎から出征する軍隊を輸送したのもこの団平船でしたが、明治中期以降、夏季に限って港内から港外へ向けて走る団平船の姿がありました。三菱造船所通いの職工の送迎用として特注された二階建ての団平船です。実はこの団平船、夏休みになると長崎市全域の子ども達を長崎港外の鼠島(ねずみじま)海水浴場へと運ぶ任務を命じられていたのです。当時、小蒸気船に曵航され航行する姿は、長崎の夏の風物詩となっていました。

曵船といえば、旅客船および、曵船として75年という長きに渡って長崎港で活躍した三菱長崎造船所の4番船として明治20年(1887)に進水した「夕顔丸」も忘れてはならない船です。三菱長崎造船所初の鉄製汽船であるこの船は、大浦の炭坑社と高島・端島間を結ぶ、かけがえのない交通船でした。また、その役割の重要性はもとより、造船設備の乏しい中、砂浜に柱を立てた粗末な船台で建造されたものであること、また船体の鉄板が人力によって曲げられたものであることなど、数々の逸話を残す船でもあります。

その後、明治も終盤になると、「一銭渡し」に代わって民間の蒸気船が港内交通船として活躍。後に様々な経路の渡し船が誕生していきました。三菱長崎造船所も従業員の通勤専属の船「諏訪丸」を運航。また、路面電車の「長崎電気軌道株式会社」も港内交通船業に進出し「電鉄丸」という船を就航させました。そして、民間の「長崎交通船株式会社」から長崎市が経営を譲り受け、大正13年(1924)に運航開始したのが、「市営交通船」。以降、市民の足として定着していきましたが、やはり時代は移り変わってゆくもの。昭和27年(1952)以降、稲佐地区の道路整備が進むとバスの運行が始まり、交通船の利用客は激減。昭和44年(1969)に惜しまれつつ廃止となりました。

大波止桟橋風景
長崎市歴史民俗資料館で2006年に開催された
企画展 『なつかしの長崎港内交通船展』展示より

人を多く乗せることを目的とした港内交通船の形は、波静かな港内専用ということもあり、横波に弱そうな、ずんぐりした形をしていたため、誰彼ともなく「ぞうり虫」と呼んだそうです。

明治中期、日本人経営の「日本郵船会社」「大阪商船会社」「東洋汽船会社」が長崎に支店を設置し、海外航路の運航を開始。明治30年代に入ると、ホームリンガー商会内に設置された「カナダ太平洋汽船会社郵便部」、「オクシデンタル・アンド・オリエンタル汽船会社」、「太平洋郵船会社」をはじめ、「アメリカ・チャイナ郵船会社」、「東清鉄道船舶部」、「独乙帝国郵船ライン」と、長崎に開設する海外の汽船会社も増えてきました。

開港以降、数多の支流が流れ着く長崎港には、世界各国を結んだ貨客船が日常的に往来する一方、市民の足「港内交通船」がのどかに航行していたのです。それは、当時の長崎の港風景に欠かせない彩りでした。
 
参考文献
『長崎異人街誌』浜崎国男著(葦書房)、『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』姫野順一著(朝日新聞出版)、『長崎市制65年史』(長崎市)
 



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