vol.2 近代化!海外交流!新時代の船

安政5年(1858)、日本はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と修好条約を締結。翌年、長崎港も自由貿易港として新たに開港され、万延元年(1860)10月には、大浦海岸一帯を埋め立てた平地部と、それに連なる丘陵部が「長崎外国人居留地」として完成しました。

慶応2年(1866)、長崎を訪れたイギリス国籍のカメラマン F.ベアトがとらえた一枚、「長崎港の波を避ける運河」と解説された写真には、外国人居留地のダウンタウン、大浦川沿いの風景があります。左側の建物は倉庫になっていて、オルトやグラバーの倉庫が並んでいます。vol.1長崎草創期、鶴の港を往来した帆船でも、F.ベアトが長崎港をとらえた一枚を紹介しましたが、このように貿易汽船は長崎港沖に停泊するのが常で、港から各商社の倉庫へ荷物を運ぶのは、この写真に見るような「サンパン」と呼ばれる伝馬船(てんません)でした。写真左手前、サンパンが繋がれた船着き場は、屋根付きの小舍となっています。ここは沖の汽船に乗るための便を待つ待合室でもありました。

もう一枚は明治中期の写真。飽の浦方面から長崎港と対岸の外国人居留地・南山手を望んでいます。そこに写り込んでいるのは、明治・大正期の長崎港名物「艦船積み込み」の様子。団平船(だんべせん)と呼ばれた石炭や物資を積載した小舟を沖に停泊した艦船に近づけ、その船腹に積み込む風景をとらえた珍しい一枚です。幕末開港以降の長崎では、高島炭鉱をはじめ、近郊で良質の石炭が採炭できたため、長崎港はアジアへ進出する欧米列強諸国の外国船(蒸気船)の燃料、石炭補給拠港として栄えました。この写真では積み込む人の様子まではわかりませんが、石炭を積み込むのは女性達の仕事でした。櫓(やぐら)にのぼった女仲仕(なかし)達が、バケツリレーの要領で石炭ザルを手渡し、船腹に空いた穴へと放り込む……その空中での格好から、「天狗とり」と呼ばれました。明治42年(1909)には、485隻もの外国商船が入港したといいます。そして、女性達の人力ベルトコンベアーによる「艦船積み込み」は、大正13年(1924)、大型船が着岸できる出島岸壁が完成するまで続きました。

サンパンが浮かぶ大浦川の風景
写真提供:「長崎大学附属図書館」

艦船を取り囲む石炭を積んだ団平船
写真提供:「長崎大学附属図書館」

明治・大正期に長崎港を賑わした船はほかにも。「長崎・上海航路」です。幕末開港直後、イギリスの汽船会社P&Oが早くも長崎に来航し、アゾフ号など3隻を使って長崎・上海間に定期航路を開きました。それは、海外貿易の拠点を長崎に求め移住してきた多くの外国人達が利用した船。グラバーは、まさにこのアゾフ号の第一便で来崎しました。その後も大陸に近い絶好の港として、長崎港には、イギリスの客船をはじめとした各国の定期運航便が数多く往来。明治8年(1875)になると三菱商会の横浜・上海航路が開かれ、4隻が神戸、下関、長崎経由で週1回就航。我が国初の海外定期航路が開設しました。

そして、大正12年(1923)2月、日本郵船が長崎〜上海間に、「日華連絡船」を週2回の運行で就航させました。就航第1便は貨客船「長崎丸」。姉妹船の「上海丸」も翌3月に就航しました。2隻共にイギリスのW・デニー造船所で建造された5000トン級の高速船で、これにより長崎〜上海間を26時間で結ぶ最短ルートが実現しました。その後、太平洋戦争がはじまる前年には、長崎で建造された3隻目の「神戸丸」も就航し3隻体制となり起点も神戸まで延伸されましたが、第2次世界大戦に入り、長崎丸は、昭和17年(1942)、伊王島北沖で日本軍布設の機雷に触れ沈没。半年後には神戸丸、翌年には上海丸が、同じく戦火の海に消えていきました。

幕末開港後、長崎港は石炭補給港として多くの外国船の寄港が増えると共に、多くの人と文化を乗せ往来した「上海航路」も発展。それによりいつしか大浦バンドには西洋式のホテルが建ち並び、長崎の町は、観光地としても注目されるようになっていくのでした。
 

参考文献
『文化百選 海外交流編』企画・編集 長崎県(長崎新聞社)、『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』姫野順一著(朝日新聞出版)
 



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