vol.1 長崎草創期、鶴の港を往来した帆船

元亀2年(1571)、ポルトガルの貿易船とともにやって来たキリスト教宣教師によって開かれた長崎の町。いわゆる「大航海時代」、ポルトガルの世界進出がなければ長崎港の開港はなく、もしかしたら現在の長崎も誕生していなかったかもしれません。また、この開港から約30年後の17世紀初頭には、唐船の長崎来航も本格化。長崎のあらゆる文化に多大な影響を与えた中国人が長崎に定住し華僑社会を形成するようになったのは、慶長8年(1603)の江戸幕府創設前後のことです。

一方、江戸時代に入ると、日本においても平和的な貿易を推進する「朱印船制度」という政策がとられ、渡航許可を受けた者に交付された「朱印状」を持参した朱印船が、日本から南の国々へと下っていきました。朱印船制度下で慶長9年(1604)〜寛永12年(1635)までの32年間に105人に朱印状が交付され、少なくとも356隻の朱印船が安南(あんなん)・呂栄(ルソン)など、19もの土地に渡航しました。その105人の内、34人が長崎に関わり合いのある大名、役人、商人、外国人達で、渡航船も356隻中、3割を越す119隻が長崎の船。また、朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎と定められていたため、長崎の住民達は、荷揚げ荷下ろしはもちろん、会計、通訳など多岐に渡る職種の朱印船要員として活躍しました。各地から集まる朱印船貿易関係者も次第に長崎に定住しはじめ、当時の長崎の町は、朱印船貿易で繁栄を極めていきました。

この初期の朱印船貿易に用いられていた船は、ジャンク船と呼ばれる大ぶりの和船。外洋への航海にも耐えられる頑丈な船だったといいます。長崎で朱印船貿易家として有名な人物といえば、商人で後に長崎代官となった末次平蔵です。長崎歴史文化博物館には、寛永11年(1634)に清水寺に奉納された末次平蔵の奉納絵馬(長崎市指定有形文化財)が所蔵されていますが、その絵馬には、今まさに船出しようとする朱印船が描かれています。船形からポルトガルのガレオン船や中国の唐人船の影響が認められる和洋唐折衷の様式といわれ、表帆柱・中帆柱・舮帆柱の3本マストに遣出柱やマキリ帆を有する外洋船。当時の朱印船は、おおよそ500〜700トンの船が大半で、船長以下、按針(あんじん)航海士、客商、一般乗組員など、200人余りの乗組員が乗船していたといいます。この末次船を描いた奉納絵馬には、「奉掛御宝前 諸願成就 皆令満足寛永十一戌七月吉日」と記されたほか、豊後氏他16人の姓氏が列記されていることから、帰航の際に船頭や客商が連名で奉納したものだと推測されているそうです。そんな朱印船貿易も、鎖国政策の進展により幕府公認の朱印船の海外渡航が難航。寛永12年(1635)、日本人の海外渡航禁止令の発布されたことにより終末を迎えました。

鎖国に入り長崎港を賑わわせたのは、独占貿易権を持った東インド会社のオランダ船唐船。当時の航行は命がけ。現代の船旅の優雅なイメージとは程遠く、「安全祈願」は徹底したものでした。オランダ船の船首や船尾には守り神と思われる人物像が飾られ、船員達は日々航海の安全を祈ったといわれていますし、唐船には、必ず航海の神様「媽祖像」を安置していました。寛永14年(1637)、64隻、寛永16年(1639)93隻、寛永18年(1641)97隻、と年々入港数が増加していった唐船は、野母崎から伊王島と香焼島の水道を通り、長崎港口で一番狭くなっている関門を通過し高鉾島へ停船。そこで長崎奉行所の入校手続きを経て、数多の引き船によって新地蔵所沖に曳航されていくのが通例でした。現在、「女神大橋」の架かる場所が当時の関門。戸町側の女神と呼ばれる地に対峙する男神には「神崎神社」があり、その上に天門峯の岩山が聳(そび)えています。長い航海を経て、無事に長崎に着いた唐船は、白衣の観音に見立てたこの天門峯の前を通過する際、香を焚き、銅鑼太鼓を鳴らしながら礼拝して通りました。また、航海安全の神様として崇められた「神崎神社」には、唐船蘭船の寄進が多かったといいます。
時代は下り、幕末になると、ここ、長崎にもいち早く近代化の波が押し寄せてきました。安政6年(1859)、安政の開国。19世紀、イギリスをはじめとした欧米列強諸国によるアジアへの進出が続く中、改めて長崎港が開港されると、長崎港は、石炭輸出や、石炭を燃料に、蒸気機関を用い、スクリュー・プロペラや外輪を廻す事で推進する蒸気船用の石炭補給拠点として栄えていきます。慶応2年(1866)、長崎を訪れたイギリス国籍のカメラマン F.ベアトによって撮影された写真には、多くの船が浮かぶ往時の長崎港を見ることができます。

写真提供:「長崎大学附属図書館」

安政2年(1855)に幕府が創設した長崎海軍伝習所の訓練船で活躍したのは、オランダから贈られた練習艦は日本初の木造蒸気船「観光丸」。昭和62年(1987)、国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図と模型を基に、オランダ・ハウスデン市の造船所で、できる限り当時に近い姿で復元されたこの「観光丸」は、現在、長崎港を巡る遊覧船として活躍しています。そして、この「観光丸」もエントリーする長崎の春の風物詩2013長崎帆船まつりが今年も近づいています。

長崎の町は、帆船が行き交う長崎港の発展とともにあった−−ぜひこの機会、真白な帆を広げ、勇壮な姿で長崎港を彩る春の祭典に足を運び、草創期の長崎の港風景を体感してみてください。

2013長崎帆船まつり http://www.at-nagasaki.jp/archives/d/254
 
参考文献
『株式会社 長崎出島』赤瀬浩著(講談社)、『長崎文化 第59号 特集 長崎の異国情緒』(長崎国際文化協会)
 



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