● それからの海援隊

長崎龍馬の道--番外編 大徳寺公園


沢村惣之丞の自刃から一夜明け、慶応4年(1868)1月16日。薩摩、長州、土佐、肥前、大村、対馬、平戸、五島、島原など諸藩は、すばやく奉行所に変わる行政機関「長崎会議所」を設立しました。ひと月後の2月15日には、新政府から派遣されてきた澤宣嘉(さわのぶよし)が長崎会議所改め長崎裁判所の総督に着任。4月19日、九州鎮撫総督兼長崎裁判所総督の澤の指令で慶応3年に長崎奉行が町の治安を守るために組織していた「遊撃隊」も「振遠隊」と改められました。そして、慶応4年4月27日、海援隊の解散命令が出されます。龍馬の死後、海援隊は二つに分かれていました。ひとつは、長崎で長崎奉行所西役所を占拠した者達、もうひとつは長岡謙吉ら京都や大坂に残留した者達です。そして、長崎に残った者達は、長崎の地役人の次男、剣客、浪人達で編成された総勢359人の「振遠隊」に参加しました。その響きからも察知できるように、「振遠隊」の名称は、海援隊に由来するともいわれています。そして、同年7月、奥州地方へと出征することとなり(戊辰戦争)、元海援隊士の石田英吉(後の長崎県令)vol.18龍馬と船1「薩摩と長州を結んだユニオン号」、野村要助(辰太郎)、渡辺剛八(大山壮太郎)、菅野覚兵衛は司令官(軍監)として、山本洪堂は医官として従軍。いずれも「振遠隊」の幹部であり、後に石田、野村は「振遠隊」隊長としても活躍しました。すでに盛業だった上野彦馬vol.6記念写真は龍馬になりきって!? がとらえた奥州鎮撫振遠隊の隊列写真が今も現存しています。上野彦馬邸のものと推察される立派な石塀前に横一列にずらり並んだ彼らのいでたちは、右半分の面々が着物に袴姿で刀を携えているのに対し、左半分の人々は、軍服をまとい、銃を携行した洋風スタイルです。彼らは西洋式の訓練を受け楽隊も持っていました。7月19日、長崎港を発った一行は、24日、秋田に到着。その後10月まで各地を転戦しました。戦いを終え長崎に凱旋したのは12月20日のこと。そして、明治5年(1872)2月20日「振遠隊」解散。海援隊の名残ある団体も姿を消しました。梅香崎天満宮を擁する大徳寺公園。“寺もないのに大徳寺”と、民謡『長崎七不思議』(『大津絵節』の替え歌)に唄われるように、かつてここに立派な寺院・大徳寺(明治元年廃寺)がありました。花街 丸山の入り口、丸山公園から大徳寺公園までのなだらかな坂道は『勅使坂』と言われています。大徳寺には以前明治元年、戌辰戦争に長崎から参加した振遠隊士の墓がつくられ祭祀してあり、天皇の勅使がこの墓を訪ねるために道を整備したのです。現在は佐古招魂社に合祀している旨を刻んだ石碑が公園の片隅に今も残る、振遠隊ゆかりの地です。
 




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