● 龍馬が「希望」を託した長崎の町

長崎龍馬の道--1〜45 全域


初めての長崎での宿舎 本蓮寺の裏山から長崎港を望む

京都、下関、薩摩、長崎。「大政奉還」という大仕事に向け、龍馬は精力的に各地を駆け回わりました。朝廷の本拠地である京都や、倒幕運動を主導する雄藩の拠点である下関(長州藩)と薩摩。そして、彼が商事活動の拠点としたのは長崎の町でした。龍馬が社中や海援隊など商事活動の基盤を長崎に置いた理由は何だったのでしょう。戦国時代から海外貿易港として栄えた幕府直轄の天領地。鎖国体制になった後は、国内で唯一海外への窓口として開かれていたのが長崎港でした。また、龍馬がこの地を初めて訪れた際は、安政の開国後。横浜、函館と並び、すでに新たな開港地として外国人居留地が造成され、ヨーロッパをはじめとした世界各国から貿易商人らが移住し、海外貿易がさかんに行なわれていましたvol.7龍馬も通った難所、日見峠と矢上宿。龍馬が、選んだその第一の理由に考えられるのが、長崎貿易の特殊性です。当時の海外貿易は、生糸、茶などを輸出し、砂糖、綿織物、毛織物、武器艦船などを輸入していました。なかでも、長崎貿易では、武器艦船の取引き額が他の開港地より群を抜いていました。軍備増強のため、西南諸藩が武器艦船を大量に購入したためだといわれています。その延長線上で第二の理由も浮き彫りとなってきます。購入した艦船は、洋式帆船や蒸気船。それらを操縦できる技術者が求められていたのです。勝海舟の神戸海軍塾において航海術を学んだ龍馬らの腕の振るいどころだった訳です。さらに、第三の理由として地理的条件があげられます。長崎は、倒幕派の長州(下関)と薩摩のほぼ中間の位置にあり、両国への移動に好都合の地。また、幕府直轄地であるとはいえ、江戸からは遠く、幕府の監視を逃れ思い切った動きが取れたことが容易に想像できます。そして第四の理由が、長崎の町に集まる情報量の魅力です。長崎には、鎖国期に設けられた「長崎聞役」という役職の名残から諸藩の蔵屋敷が13もあり、駐在する役人のほか、諸国から多くの人々が情報を求め集まってきていました。また、当然ながら外国人との接点も多く、文化や最新技術、思想に至るまで、世界の中の日本の将来を見据えた国際感覚を身につけることが可能な場所だったと考えられます。常に前を向いていた龍馬にとって、長崎ほど、「希望の地」と呼ぶにふさわしい場所はなかったのかもしれません。




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