● 龍馬が長崎でしたためた手紙

長崎龍馬の道--7 亀山社中記念館 21 長崎まちなか龍馬館


龍馬の人となりが後世に伝わる背景には、彼がしたためた手紙の力も大きく存在しました。筆まめな龍馬は、33年の生涯に膨大な書簡を書き残し、そのうち139通が現在確認されています。最も多い宛先はすぐ上の姉乙女。有名な乙女宛の“エヘンの手紙”には、勝海舟への弟子入りを自慢げに「エヘン」と報告、回天の志を綴った手紙には「日本を今一度せんたくいたし申候」。今、読んでもインパクトのあるフレーズが綴られています。龍馬は、人の心を惹き付けるキャッチーな言葉を生み出すことにかけて天賦の才能、現代でいうコピーライターのような才能を持ち合わせていたようです。長崎でしたためた手紙も各所に残されています。慶応2年7月、長州藩士 三吉慎蔵に宛てた手紙には、特に何も言う事はありません…といいつつ、長崎に帰ったら乗り換える船がなく、水夫に暇を出したら、泣きながら出てゆく者、死ぬまで共にしたい…という者がいると社中(亀山社中)の窮状を報告しています。またこの慶応2年は、龍馬にとって様々なことが起こった目まぐるしい年で、そんな一年を締めくくるように、12月4日、龍馬は乙女宛と、兄 権平と家族一同に宛てた長い手紙、この二通を小曽根英四郎邸でしたため送っています。家族宛の手紙には、この年に起きた寺田屋での難、第二次長幕戦争の様子、弟のように可愛がっていた池内蔵太が社中の帆船ワイルウェフ号の沈没によって亡くなったこと、刀は短い方が良いことなど、自らの思いをつらつらと記しました。池内蔵太の死は、時を経てもなお龍馬の心を痛める大きな出来事だったのでしょう。自分もいつ死ぬかわからない、そんな思いもよぎる中、今の自分の思想や行動を家族に伝え理解を求めるために夜を徹して書き綴ったのかもしれません。この時、乙女宛に書いたのが、お龍との霧島旅行の様子を事細かに報告したかの有名なスケッチ入りの手紙でした。この複製は、長崎まちなか龍馬館vol.2『長崎龍馬の道』index21に登場した情報発信基地の中身は?に展示されています。また、亀山社中記念館vol.13亀山社中跡が保存、復元されるまでには、慶応3年4月初旬、乙女からの手紙に対する返事(複製)、また、同年5月、いろは丸事件の賠償交渉で奔走していた期間、下関の伊藤家に預けていたお龍に宛てた手紙(複製)が展示されています。




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