● 後藤象二郎という男

長崎龍馬の道--21 土佐商会跡



(江崎べっ甲店所蔵)

坂本龍馬、岩崎彌太郎、後藤象二郎。この三人の土佐出身者を結びつけた町、それが長崎でした。天保6年生まれの龍馬、龍馬より一つ年上の彌太郎、そして、天保9年生まれの後藤、三人は同世代でした。しかし、上下の差が厳しい高知城下で、龍馬と彌太郎は郷士や地下浪人といった下級武士の出身であったのに対し、後藤は上級武士の家の長男。少年期には、義理の叔父である吉田東洋の少林塾で文武両道を学びました。15歳の時、東洋宅でアメリカから帰国した中濱万次郎(ジョン万次郎)と出会います。万次郎の話に目を輝かせて聞き入る後藤。その態度に感心し、万次郎は彼に世界地図を贈ったといいます。また、彌太郎も少林塾に入塾したこともあり、後々後藤らの知遇を得ることとなります。藩内の東洋派として出世街道をひた走っていた後藤でしたが、東洋が武市半平太(瑞山)率いる土佐勤王党に暗殺されると失脚。その後文久3年に藩政に復帰し、江戸の幕府開成所で、航海術・蘭学・英学などを学習していましたが、土佐藩主・山内容堂に呼び戻され、土佐勤王党の大監察に抜擢。武市らに切腹を申し渡したのは後藤でした。それから東洋の遺策で藩近代化推進機関である開成館を設立すると参政に昇格。慶応2年(1866)には長崎に出張し、土佐開成館貨殖局長崎出張所「土佐商会」を開設しました。後藤は、船舶の知識を持ち合わせ、英語も話せる中濱万次郎を連れて自ら上海に渡航し、汽船の買い付けなどを行なっていました。幕末史に新しい幕を開いたといわれる『清風亭会談』vol.5歴史的会談が行われた「清風亭」は、慶応3年(1867)1月、上海から帰航後の後藤が、龍馬を招く形で行なわれました。龍馬が下関を出発したのは1月9日、長崎港口に11日に着いていることから、1月も下旬のことかと思われます。土佐の脱藩浪士を多く擁した社中には、当然、武市や岡田以蔵らを弾圧した後藤象二郎を敵視する土佐勤王党出身者が多くいました。龍馬も後藤からの突然の会談の申し入れに、さぞ警戒心を抱いて望んだことでしょう。しかし、蓋を開けてみるとその場で二人は意気投合。宿に戻った龍馬に社中の面々が「後藤はどういう人物か」と尋ねると、「近頃、土佐の上士には珍しい人物だ」と、答えたと『維新土佐勤王史』に記されています。龍馬が表現した“珍しい”ところは2点。あえて昔のことを持ち出さず、将来の大局を語るに終始する要領を得たところと、話題を自分中心に仕向ける才気に富んだところだったとか。後に陸奥宗光(陽之助)も、後藤の豪放磊落(ごうほうらいらく)な人柄を「古代中国で成功したはずの怪傑が日本に現出した」と評したといいます。考えてみれば、早くから世界へ目を向け、航海術や英語を学んだことなど、龍馬と後藤には共通点があり、内面に相通じるものがあったのでしょう。そしてこの年、土佐商会主任 長崎留守役に抜擢された彌太郎は、長崎にて藩の貿易に従事。そしてこの会談後、海援隊の誕生、土佐藩による大政奉還へと繋がってゆくのです。




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