● 龍馬と船2 「ワイル・ウェフ号の悲劇」

長崎龍馬の道--35〜45 長崎港


「五島祈りの龍馬像」

「亀山社中」の一員、池内蔵太(いけくらた)は、土佐勤王党党員で、後に脱藩し、長州へ亡命。下関戦争、大和天誅組挙兵、禁門の変で活躍した勇士でした。慶応2年(1866)の薩長同盟(薩長盟約)締結の際には、龍馬に同行して上京、その後「亀山社中」入りしたと言われています。同年3月、薩摩藩は木造帆船 ワイル・ウェフ号を購入しました。しかしこの船名、最近の研究によると、正式にはワイルド・ウェーブだったようです。そして、この船もやはり英国商人トーマス・ブレーク・グラバーから購入したものでした。ユニオン号では占有の希望が叶わなかったため、「亀山社中」の面々にとって大きな期待をかけた船でした。さっそく4月に、船の命名式と、物資運搬のため、糧米五百俵積んだワィル・ウェフ号は長崎に寄港したユニオン号に同行して鹿児島へ向かいました。長崎港を出港したのは、4月28日午前四時頃。この船に、池内蔵太が士官として乗り込んでいました。29日は朝から凪でしたが、5月1日午前6時頃、甑島(こしきじま)沖通過中に強風にあおられ、午後8時頃には天草方向への進路変更を計りましたが11時頃に強風、強雨、大波に遭い、風まかせに船を進めるしかありませんでした。そして、5月2日午前5時頃、島影が見えたので舵を取り直すも瀬に打ち当り沈没。場所は五島列島・潮合崎(しおやざき)沖、現在の新上五島町有川の沖でした。乗組員のうち4人は助かりましたが、池内蔵太をはじめ、12 名が命を落としました。龍馬らは、6月中旬頃に現地を訪れ、犠牲者の冥福を祈るとともに、したためた碑文に建立資金を添えて村の庄屋に墓碑建立を依頼したといいます。この墓碑は今も有川の江の浜郷共同墓地に残り、この墓碑だけが海に向かって建っているそうです。池内蔵太、享年26歳。自分の後継者として期待していた彼の訃報を聞いた龍馬は、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれています。江の浜郷「龍馬ゆかりの広場」には、今年の5月2日、くしくもワイル・ウェフが沈没したのと同日に、風頭山の「坂本龍馬之像」vol.15龍馬同様、意志を貫いた若者達の希望の作者である山崎和國氏が制作した「五島祈りの龍馬像」が建立されました。海路、長崎港から五島列島へ。龍馬と同じように、船で龍馬ゆかりの地を訪れてみるのもいいかもしれません。
なお、8月11日より、この「五島祈りの龍馬像」のレプリカが、長崎市の『長崎まちなか龍馬館』(http://www.nagasaki-ryoma.jp/)に登場。エントランスホールにて皆様のご来館をお待ちしています。是非、足をお運びください。vol.2『長崎龍馬の道』、index21に登場した情報発信基地の中身は?




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