■DATA■
滞在期間/1661年の来崎後1年足らず福済寺に滞在。
連れ/不明。
目的/福済寺の招聘を受けて。仏像の像造、彫塑の技術指導のため。


范道生●はん・どうせい
/1635年中国福建省泉州生まれ。仏師。父は同じく仏師の范賛公。黄檗宗の本山、京都府宇治市にある黄檗山萬福寺の仏像を数多く制作。そのなかで道生が日本で最初に手がけた仏像は、現在萬福寺の禅堂に安置されている観音像であるといわれている。1670年(寛文10年)、36歳で逝去。


隠元禅師が呼び寄せた明の名工
その高い技術と、悲しい最期

范道生は若干26歳という若さで、長崎福済寺の招きで日本に迎えられた中国の仏師。彼の渡来以前に渡来し、京都宇治市に黄檗山萬福寺を開山した隠元禅師は、若い頃から名声を得ていたこの范道生を本山へと招き入れた。その理由には、隠元禅師は日本に来て以来、仏像の像容に満足していなかったという説も。ともあれ、范道生はその後、萬福寺で多くの仏像を造った。当時、彫塑界の不振が続く江戸時代、范道生の彫塑はめざましく優れ、周囲に鮮烈な印象を与えたという。萬福寺に残る范道生作の尊像は「大雄宝殿」の十八羅漢(らかん)像、「開山堂」の隠元禅師像、「祖師堂」の達磨大師坐像、「斎堂」の緊那羅王菩薩像、「天王殿」の布袋(弥勒菩薩)、「伽藍堂」の華光菩薩、「禅堂」の白衣観音坐像など、20体以上にものぼり、すべてが文化財に指定されている。しかし、それらの全てを范道生が一人で手掛けたものではなく、多くの中国人・日本人仏師を指導して造られたと推察されているそうだ。崇福寺の大雄宝殿にも萬福寺と同じ十八羅漢像があり、その作風から近年まで范道生作と信じられていたのだが、調査から徐潤陽など3人の中国人仏師によるものと判明した。

范道生が黄檗山に遺した明末様式は「黄檗様式」としてその後のわが国の仏像彫刻に大きな影響を与え、数々の名工に受け継がれたのだろう。崇福寺の十八羅漢像も黄檗様式を代表するすばらしい彫刻だ(県指定有形文化財)。はたまた崇福寺護法堂内におさめられた韋駄天像の涼しげな目元などは、萬福寺のそれと酷似している。それにしても長崎ゆかりの仏師、せめて一体でも范道生作の仏像が長崎で発見されてほしいものだが……。願望はさておき、范道生は萬福寺の仏像を仕上げた後の1664年、父親危篤の一報を受け、老父がいる廣南(現在のベトナム)へと向かった。その後亡き父を弔った後、1670年(寛文10年)再度日本へ向かったのだが、鎖国の日本の法律は冷たく、2度目の入国は認められなかったという。長崎港まで来たものの、長崎奉行は法を楯に頑として上陸を許さず、様々な人達が間に入り上陸許可を願い出たがその交渉中に吐血し、船中、36歳の若さで急逝してしまった。死んでやっと上陸できたという、悲しい最期を迎えた范道生の墓は、崇福寺の後山にある。



崇福寺後山にある范道生墓所
(市指定史跡)



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