コンプラ瓶で海を渡った醤油

コンプラ瓶で海を渡った醤油
実は誕生間もない「醤油」
「コンプラ瓶」の中身も進化!?

では、肝心な中身に入っていた「醤油」について調査してみよう。日本人はどのように「醤油」を作り、活用していたのだろうか?

現代において私達が口にしている「醤油」の原型は、鎌倉時代に宋から帰国した覚心(かくしん)という僧が伝えた径山寺(きんざんじ)味噌にあるといわれている。その覚心が、紀伊半島・湯浅の(和歌山県)「鷲峯山興国寺」で大豆と小麦、塩で作った味噌の上澄みに出来てくる美味しい液体を料理に使ったのが「たまり醤油」であり、それが源となり全国へと伝わっていったのだという。

そして早くも1580年頃には径山寺味噌の産地、紀州・湯浅に日本最初の醤油製造業「玉井醤」が創業している。

日本の「醤油」は大きく2種類、味噌の上澄みからできる「溜まり醤油」と、日本酒に近い製法の「本格醤油」。覚心和尚が中国から製法を持ち帰った「径山寺味噌」から得られた調味液は「溜まりしょうゆ」の系統で濃厚な味わいを持つ「醤油」。

文献に16世紀頃から「シヤウユ」の用語が見えるようになるが、それはまさにその頃だろう。

江戸時代初頭頃より、堺を中心とした地域で大量に生産されるようになった「醤油」は酒屋で作られたもので、製法や原料の比率も今日のものに近い。これがやがて江戸に集まる人口への供給のため、「下り醤油」として大量に関東へ移送。17世紀になり、紀州・湯浅の浜口儀兵衛(現在の「ヤマサ醤油」)が銚子に移り、関東醤油の基盤を築き、「醤油」は江戸の町で発展した。江戸の町で発展していった庶民の味「寿司」「てんぷら」「そば」などに使われるようになって、日本料理のベースを司る調味料へと発展を遂げたのだった。

では、長崎から輸出された「醤油」がどこで作られていたか、というと、当時名産とされていた大坂・堺。当時堺には4軒の醤油製造業者があったのだ。

そして、堺から長崎までの運搬に使われたのが、中国から長崎に入ってきていた生糸を堺に運ぶために定期的に運航されていた「堺糸荷回船」の帰りの便船。この船に大坂・堺産の「醤油」が積み込まれ、長崎・出島へと運ばれてきたのだった。

さて、日本でも誕生間もない「醤油」、当時、海外へ輸出されていた「醤油」の「お味」はどんなものだったのだろうか。

関西の「醤油」というと「薄口!」と思いがちだが、薄口醤油が誕生したのは、播州(岡山県)龍野で1666年のこと。それが、関西に伝わったのは、1851年以降だといわれていることから、「薄口醤油」ではないようだ。江戸時代初頭まで、関西の「醤油」は「溜まり醤油」が一般的で、17世紀中頃から清酒を漉(こ)す技法を転用した醤油のもろみを漉し取った「澄み醤油」へ移行し生産が増大していった。そのお味は、現代の「醤油」と比べて旨味と香りが少なく、塩分が高いものだったとか。そして、18世紀に入ってからは、関東で製造されはじめた「濃口醤油」が関西でも作られるようになり、「薄口醤油」とともに主流となることで「澄み醤油」は姿を消していった。

江戸時代は「醤油」製造の変革期。出島から「JAPANSCHZOYA」と記された「コンプラ瓶」に入って、海を渡っていった「醤油」は、この「醤油」の発展とともに、「溜まり醤油」→「澄み醤油」→「濃口醤油」と、時代ごとに中身を変え、海外の人々に親しまれていったと考えられている。
 

コンプラ瓶で海を渡った醤油
味、製造法、パッケージ!
「醤油」を見つめた商館の人々

ここで長崎ゆかりの海外の著名人が、「醤油」に接した時のコメントを、それぞれの著書からみつけてみよう。

〈エンゲルベルト・ケンペル/オランダ商館医 滞日 1690〜1692〉

ケンペル
出島ホームページより


「ソーユ醸造には、やはり空豆を或る程度の柔らかさまで煮る。ムッギ、すなわち大麦か小麦かいずれかの麦(小麦から作るものの方がどちらかといえば黒くなる)を粗くすり潰す。そして等量の食塩、すなわち、それぞれを一枡ずつ、空豆はすり潰した麦と混ぜ合わせたものをくるんで、温かい場所に一昼夜置き、発酵させる。ついで、その塊を甕に入れ、上述の食塩で包み、二枡半の水を注ぐ。そしてその塊に翌日まであるいは数日の間、きっちり蓋をしておき、少なくとも一回(二回とか三回であればなおのことよい)は柄杓でかき回すこの作業を二ヶ月から三ヶ月の間続けた後、塊を濾して絞り、液体を木桶に保存する。液体は古くなればなるほど返って澄んでくるので、よくわかる。こうして絞ったあとの塊に再び水を注ぎかけて、数日間かき回し、また絞るのである」(『廻国奇観』より)

〈カルル・ペーテル・ツュンベリー/オランダ商館医 滞日 1775〜1776〉

ツュンベリー
ツュンベリー肖像画・模写
/長崎市立博物館蔵

「(日本人は)非常に上質の醤油を作る。これはシナ(中国)の醤油に比して遙に上質で ある。多量の醤油がバタビア(ジャカルタ)、印度(インド)、及び欧羅 巴(ヨーロッ パ)に運ばれる。」
「和蘭(オランダ)人は醤油に暑気の影響をうけしめず、又その醗酵を防ぐ確かな方法 を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰とし、その 栓に瀝青(れきせい)を 塗る」(『ツンベルク日本紀行』より)

〈ヘンドリック・ドューフ/オランダ商館長 滞日 1803〜1817〉

ドューフ
ドゥーフ肖像画
/長崎市立博物館蔵

「……醤油は実に小麦・塩・及味噌豆といえる白豆の一種の混合に外ならず。此等は大槽に入れて地下に貯えられ、一定時間の間発酵せしめたる後、之を煮沸し以って永く保存し得しむ」(『日本回想録』より)

〈フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト/オランダ商館医
 滞日 1823〜1828〉

シーボルト
出島ホームページより

「人の知る醤油(ソーヤ、Soja)は大豆(Sojabonen)・塩・米もやしにて作りたるソース。国人の好む酒精飲料の酒(サケ、sake)は本来、米より醸したるビールなり」(『日本』より)
 

最後に−−。
今、見ても素朴でシンプルながらも洗練されたものを感じる「コンプラ瓶」。実は、このコンプラ瓶には、たくさんの逸話が残る。たとえば、ジャガタラお春の調度品に含まれていたとか、ルイ14世が愛用していたとか、ロシアの文豪トルストイが書斎の一輪挿しとして愛用していたとか……。大量に輸出するにはちょっと小さめ。だけど、そのままキッチンで使えるサイズの「コンプラ瓶」。海を渡った遠い国で、多くの人に親しまれていたとは、浪漫あふれる話だ。

※2012.10月 ナガジン!特集「ジャガラタ文とお春の人生」参照

参考資料
★参照ホームページ
出島公式HP『甦る出島』 http://www.city.nagasaki.lg.jp/dejima/
キッコーマン国際食文化研究センター http://www.kikkoman.co.jp/index.html
波佐見町観光ガイド http://www.hasami-kankou.jp/rekisi/index.html
井上早苗「料理を変えた醤油」―長崎・出島との関わり
http://www19.big.or.jp/~higashi/nagasaki/inoue/index.html
すべての謎を解く鍵は歴史のなかに http://www.nazo-kagi.com
『コンプラ瓶の旅』 http://www4.ocn.ne.jp/~riria/compra/comp1.html
★参考文献
『近世オランダ貿易と鎖国』八百哲介著(吉川弘文館)、『長崎市史』「通交貿易編・東洋諸國部」(精文堂出版)


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