外海・心惹かれる石積風景

暮らしの中で育まれた文化
外海の地盤を構成する
“温石”が生んだ風景

さて、外海地方の潜伏キリシタンの心を支え、遥か海を渡り、五島にも運ばれた“温石”についてもう少し勉強しておこう。外海エリアを含む西彼杵半島の南部は、この“温石”と呼ばれる結晶片岩を主とする古生層で構成されていて、それを玄武岩(げんぶがん)と安山岩(あんざんがん)といった2種類の火山岩が貫いている。玄武岩は、大野岳、上大中尾の北部、妙正岳、変岳、それと黒崎の城山、小城ノ鼻。角力灘に浮かぶ池島、大角力、小角力なども玄武岩の島々だ。そして安山岩は、三重エリアとの境界に沿って細長く分布し山体を造っている。しかし、それらはホンの一部。外海エリアは、ほとんどが結晶片岩(主に黒色片岩)で占められているのだ。

縄文時代から弥生時代に属する「出津遺跡」が確認された外海は、古代から人が住み着いていた土地。9〜10世紀には半島各地で、温石の一種である滑石(かっせき)を利用した石鍋製作が行われ、日本各地へ流通していたという。14世紀頃には、西彼杵半島の在地領主・神浦氏の支配下にあり、近世に入り神浦氏が大村藩の統治下に入ったため外海は神浦村、黒崎村に分けられた。

文久2年(1862)、180年の歳月をかけ完成した『郷村記』(大村郷村記)には、「其地荒野多く、田畠・山少なし、郷里すべて海辺にあり」(黒崎村)とあるように、黒崎村の集落は五島灘に面した海岸の傾斜地にあり、水田は少なく背面に畑が広がっていたようだ。
出津川上流から海岸部を望む集落景観はこんな感じだ。
出津川上流から海岸部を望む集落景観

出津川の左岸側は急斜面のため、居住者はほとんどなく、河川流域部のわずかな平地と出津川の右岸側の南に面する北岸の数段の河岸段丘上の緩斜面には、開墾してつくられたいくつかの集落がある。そして、その集落の中には、段々畑、宅地の石垣、水路、護岸、墓地、ネリベイ建物という住居の石壁など、海や川の石材や斜面地を開墾した際に出土した“温石”を用いた多様な石積築造物が見られる。

これらが築かれた理由には、急峻な土地を開拓しているため、土の流出を防ぐ工夫として水はけのよい石垣を構築する必要性があり、開墾の際、無尽に出る結晶片岩、いわゆる“温石”が、身近で加工しやすかったこと。また、山の極限まで土地利用していたため木材が不足していたことなどが挙げられる。いずれにしても、地域の生活に即した形で独特な石積文化を持つ集落が形成されていったと言えるだろう。

では、どんな石積築造物があるのか実際に見てみよう。
 

暮らしの中で育まれた文化
歴史と人々の生業が
文化的景観を生んだ!

1. 急斜面に階段状に設けられた「石垣」
2. 海岸線の防風・防潮に不可欠な「石築地」
3. 民家の防風・防寒用として築かれる「石塀」
4. 居住や収穫物を収める「石壁」

「石垣」
「石垣」

「石築地」
「石築地」

外海の石積築造物は、「石垣」「石築地」「石塀」「石壁」の大きくこの4つの形式に分けられる。そして、これらは、地域の人々の生業や歴史に伴う生活の変化などと密接に関連しながら変遷を遂げているのだが、その時期も大きく4つに分けることができる。また、技術としては、平らで加工しやすい“温石”を水平方向に目が通るように積む「算木積み」あるいは、一部で目の通りが崩れるがゆえに「算木崩し」と呼ばれる築造技術を主体に発展していった。しかも、家屋と石垣の石積は、通常それぞれの技術者が手掛けるものだが、外海エリアでは、どちらも一般の人々により同じ手法で築く技術が受け継がれてきたという特徴を持っている。

外海石積文化の変遷、第1期は、民衆による石積文化が一度完成された「江戸期」。文久2年(1862)の絵図に、石積が描かれているが、これは、17世紀の初めに大村藩内で定着したサツマイモ栽培の拡大と共に斜面地を開墾し畑地景観の原形が作られた西彼杵半島共通の在地石積文化の形成期。

こんなエピソードがある。すでにサツマイモ栽培が定着し、日常食となっていた享保の大飢饉(1732)の際、大村藩内では死者がほとんど出なかったといわれ、当時の『見聞集』の中には、サツマイモを栽培していたことや大岡越前にサツマイモを紹介したことなどが記されているというのだ。また、あらたな開拓地を求め、外海から五島へと移住した人々により、サツマイモの畑作のための石垣技術も伝わっていった。


三五ノ谷の水田石垣
第1期に分類される「三五ノ谷の水田石垣」。算木崩しの隅角部(ぐうかくぶ)と緩やかな反りを持つ石垣技術が特徴

また、この第1期のネリベイ建物など住居の石壁には、韓国や中国、台湾などにも同類の建物が見られるものだそうで、外海の場合は、開墾の際に地中から露出した結晶片岩の石壁と麦わらを用いた草葺き屋根が特徴である環東シナ海沿岸文化圏の影響を強く受けていると考えられている。
外海石積文化の変遷、第2期は、明治〜大正時代、外海に布教に訪れたフランス人宣教師ド・ロ神父による西洋技術の融合による外海独自の石積文化の発展期。


明治期のカトリック施設群とその一帯に見る集落景観
明治期のカトリック施設群とその一帯に見る集落景観


ド・ロ神父は、布教と共に、人々に仕事を授け、自立する力を身につけさせるために新たな農業・土木技術を伝授した。ド・ロ神父の影響は、「旧出津救助院」「大平作業場跡」の石垣などに用いられた石面を平滑化するノミ加工(すだれ加工)という技術、目地にわらす土に代わり石灰を混入したネリベイ建物が大型化された石壁(通称、ド・ロ壁)に見ることができ、それらの技術は一般家屋にも採用されていった。


旧出津救助院のド・ロ壁
旧出津救助院のド・ロ壁

大平作業場跡
第2期に分類される「大平作業場跡」。 ド・ロ神父主導により築造された西洋的石壁技術

橋口家のネリベイ建物
「橋口家のネリベイ建物」。 ド・ロ神父の技術の影響を受けて築造された石壁

外海石積文化の変遷、第3期は、ド・ロ神父の死後、大正後期から昭和中期にかけて。カトリック共同体の活動も停滞し、ド・ロ神父独自の石積技術は本格的には根付かず、第2期の影響を受けた新たな民衆石積文化が展開されてく。特に昭和27年から池島炭鉱の開坑準備がはじまると、炭鉱に従事する移住者などにより、外海の農業・漁業は一時期活気を取り戻した。これが、半農半石工として活動する技術者をこの地に留まらせ、石積の集落景観を残存させる要因となった。
外海石積文化の変遷、第4期は、昭和30年以降。産業構造の変化から、自給自足の生活も終焉を迎え、人々は出稼ぎや他地域への移住者も増加していく。当然、石工も多数流出したが、昭和56年の出津教会周囲の石垣改築の際には、コンクリートでの改築ではなく、結晶片岩(温石)で改築するなど、石積に対する愛着の高さを示した。
出津小学校の石垣
第4期に分類される「出津小学校の石垣」。昭和期に築かれた最後の長大な石積

このように外海エリア独自の石積文化は、出津川流域に展開する狭隘(きょうあい)な地形と、温石という独特な地質、そして海洋性の気候に育まれつつ、地域の人々の生業と歴史の変遷を反映した価値のある文化的景観だといえるだろう。

さて、実は、長崎の中心部にも“温石”を石材として使った場所がある。それは、明治初期に整備された旧市街地の溝に張り巡らした「三角溝」の底石。シシトキ川最上流部の麹屋町公園付近やその寺町側の側溝、公会堂裏の地獄川、五島町と樺島町の境界にある三角溝の底などだ。西彼杵半島のほか、長崎(野母)半島などにも分布する結晶片岩“温石”。長崎に近い産地では小ヶ倉(こがくら)があり、これらはその辺りから切り分けたものだろうか。何はともあれ生活用途に優れた“温石“は、加工するにも便利とあり万能な石材として古くから活用されてきたということだろう。ただし、町の景観を構成するような築造物は、外海エリアでしか育まれなかった。
 

最後に−−。
自分達の住む町に独自の文化があり、それが受け継がれているということは、かけがえのない財産であり、住民のとって誇らしいこと。それが美しいものであれば尚更のことだ。外海エリアの石積風景は、歴史の中で変遷をとげながらも、その技術が地域の人々の手によって継承されてきた価値あるもの。土地の恵みと先人の知恵と努力に育まれた外海の石積風景――これから、もっと多くの人に知ってもらいたい長崎の遺産だ。 この外海の石積集落景観は、文化財のひとつである国選定の重要文化的景観に選ばれている。

参考文献
『外海町史』(外海町役場)、『長崎石物語』布袋厚(長崎文献社)、『外海−キリシタンの里−』(外海町役場)


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