自分の哲学を貫いた

実業家 梅屋庄吉
孫文を支えた男の信条〈後編〉

実業家としての第一歩、写真館経営
結局、アメリカ留学行きのその船は突如火災が発生し、庄吉は長崎に舞い戻ることとなった。しかし、庄吉は家業を継ぐ事はなく、自分の興味のある仕事に取り組んでいく。まずは、大飢饉に見舞われた朝鮮半島へ向け、梅屋商店の精米所の米を販売。莫大な利益を生んだが、調子に乗って米相場へ手を出し大失敗。両親に多大な借金を負わせ落胆した庄吉は、再び中国へと旅立った。福建省廈門(アモイ)島を出発点に中国、東南アジア各国を放浪。そしてシンガポールでひとりの日本人女性、中村トメ子と出逢う。庄吉はトメ子がイギリス人に家政婦として仕えていた時代に取得した写真技術を習い、2人はまずシンガポールで「梅屋照相館」を開業した。「照相館」とは日本語で写真館の意味だ。しかし、シンガポールではうまくいかず、2人は香港に移住する。

アイデア豊富なプロデューサーとしての一面
「梅屋照相館」が香港で成功したのには、新サービスの存在が大きかった。今では当たり前の「出張撮影」、当時の「出撮し(でうつし)」が評判となったのだ。また、シンガポールに出した梅屋照相館シンガポール店では、パテー社製の映写機と映画フィルム4巻の上映を皮切りに映画ビジネスで成功。その後、庄吉は帰国、上京し、明治39年(1906)、映画ビジネス業「Mパテー商会」を本格始動させる。これは日本映画界ではやや遅れてのスタートだったが、庄吉はとにかく斬新なことに取り組もうとしていった。

上京後第一弾の興行、場内の照明は最新式のガス灯を用い、会場である築地新富座の正面には、南洋から輸入したシュロの葉で作った緑のアーチを装飾。PRでは映画のスチール写真を絵はがきにして東京中にばらまき、数両の二頭馬車を仕立て、音楽隊を乗せて東京市内を練り歩いた。鑑賞料もランク付けし高級感を演出。さらには、広告切り抜きを持参した人は半額にするといった現在でいうクーポン制度を考案。はたまた、場内整理兼案内人には、若く美人ばかり12人を採用し話題をさらった。極めつけは、この興行自体の純益を神武天皇の生まれたとされる宮崎の日向・高千穂にある神社を昇格させるためのチャリティとしたことだ。劇場には、桂太郎、後藤新平、大隈重信、板垣退助、榎本武揚……と、政治家、華族、名士達が次々に姿を見せ、庄吉は政界、財界の実力者とのつながりを手にした。設備や宣伝に経費をかけ過ぎたため、利益はさほど出なかったものの、無名だった庄吉は、この最初の興行で日本映画界の風雲児として存在感を示すに至った。

その後庄吉は、伝染病に対する知識の普及を訴えるための映画「バクテリアの研究」や、悲劇を見て同情心を深くする、弱い者を救う義侠心を養うなど、映画が子どもに影響を与えることを意識し、教育映画の輸入と普及にもつとめた。

妻 トクとの出逢い、二人の共通点
時は少し戻るが、妻 トクとの出逢いは、まだ、中村トメ子と香港で「梅屋照相館」を営んでいるときだった。写真館の成功だけでは満足せず、“タイに一大ゴム園を作り日本人を呼んで事業を興そう”などという構想を進めていた庄吉は、明治27年(1894)、東洋で重要な地位を占めることの必要性を説く政治家 大井憲太郎と連絡をとるために東京と香港を行き来していた。そんなあるとき、米相場で大損を被ってから帰郷していなかった長崎に2年ぶりに帰った。すると父は病床にあり見知らぬ女性がこの家の娘だと名乗る。彼女は出て行ったまま帰って来ない庄吉を当てにしていては梅屋家が絶えてしまうと、父 吉五郎が壱岐の士族から養女にとった娘だった。そして、「一緒になるのを見届けてあの世に行きたい」という病床の父の願いを庄吉は断ることが出来なかった。香港で庄吉の帰りを待っていただろうトメ子は、そんな庄吉を見限り別の男性と結婚。親族の家に遺された庄吉関係の資料には、トメ子の名はまったく出てこないのだという。

トクとの結婚後も庄吉は香港へ戻り、トクは、母 ノブが亡くなる明治36年(1903)まで長崎で家業を守り立て、結婚後9年たった後、香港へ渡り庄吉と暮らしはじめる。

庄吉は「梅屋照相館」を軌道に乗せ、香港暮らしが長くなるにつれ、現地の顔役となっていった。面倒見の良い庄吉は、警察も手を焼くような博打で客の身ぐるみを剥ぐような賭場のボスを懲らしめると、同様に賭場に巣くっていた犯罪者を全員家に連れて来て面倒を見ると言い出す。それに対し、トクは文句もいわず更生を引き受け彼らを真人間にする。そんなことが度々あったという。娘の千世子の回想文にはその当時のトクが話した言葉が記されているという。

「人の愛を知らない心のまがった人には、神のような心で接しないと、真人間にはなりません。自ら肌着の汚れまで洗ってあげて愛を示してあげる事が、人をよみがえらせることになるのですよ」。

庄吉はとにかく困っている人や、弱い人を放っておけない質だった。お金に困った人がいると援助せずにはいられない。親族の家に残る庄吉宛の日本人からの手紙のほとんどは「無心状」なのだという。また、お金を渡すだけでなく、捨て子を家に連れ帰り、トクに「この子らを頼むぞ。面倒をみてやってくれ」と告げる。親しい友人が愛人との間に生まれた子を庄吉に託し、トクが懸命に育てることも度々だったという。さらに、身寄りがなく、香港でこの世を去り無縁仏となった日本人の墓碑を建てたり、帰国後も貧しい人や無縁仏の墓を建てたりもしている。

庄吉は3つの信条を持っていた。

  一、この手によって造られざる富は多しといえども貴むに足らず……。
    (富や豊かさは財産や名声にあるのではなく、富貴在心、人の心の中にあるもの)

  二、世の中は持ちつ持たれつ お互いに助け合うこそ人の道なれ。
    (「同仁」とも通じる考え方)

  三、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

庄吉の行動はいつも、これらの信条に裏打ちされたものだったのだ。
そして−−。

  君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す

この言葉を実現すべく庄吉は自らのアイデアと行動力で大金を稼いだ。しかし、必ずしも金儲けだけに走る、というのではなかったところに庄吉の器の大きさを感じる。彼は、万人が喜びそうなこと、社会的貢献、文化への寄与など、あらゆる可能性、あらゆる楽しみを模索し、新しい時代の扉を、新境地を、自らの信念に基づいて切り開いていったのだった。
 

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