シーボルト事件の発端
持ち出そうとした地図こそ
伊能忠敬の『日本図』だった

文政元年(1818)、忠敬が73歳でこの世を去った3年後の文政4年(1821)、『大日本沿海実測録』という14巻から成る実測記録とともに、最終版伊能図は弟子達によって幕府に提出された。正式名は『大日本沿海輿地全図』(大図214枚・中図8枚・小図3枚)という。

出島商館医として来日。長崎の村はずれである“鳴滝”の地に蘭学を教える「鳴滝塾」を構え、数々の門弟を世に輩出し、日本の医学に多大な影響を与えた医師シーボルト。彼が起こした「シーボルト事件」の大きな要因となったのも、実は国防上の最高機密品であった『伊能図』の持ち出しだった。

「シーボルト事件」の顛末は、次の通り。

文政11年(1828)9月、オランダ商館医のシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方兼書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分。シーボルト自身も出島に1年間軟禁の上、文政12年(1829)、国外追放の上、再渡航禁止の処分になったというものだ。

樺太東岸の資料を求めていた高橋景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保は、最終版伊能図『大日本沿海興地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとしたわけだ。

シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた『伊能図』を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋は学者らしいシーボルトのために写しを同意した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。

しかし、シーボルトは危険を予知し、大急ぎで自作し持ち出した『伊能図』の写しは、正しい日本の姿を現す『日本図』として全世界に発信された。

ちなみにシーボルト事件は伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803)に西蝦夷地を測量した間宮林蔵の密告によるものというのが有力説。間宮は、当時、長崎奉行を経て勘定奉行となった遠山左衛門尉景晋の部下となり、幕府の隠密として全国各地を調査していた。

また、この事件が起きたのは忠敬の死後10年経ってから。つまり忠敬はその顛末を知ることはなかった。

伊能忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町生まれ。青年時代を横芝光町で過ごし17歳で伊能家当主となった。佐原では家業のほか、村のため名主や村方後見として活躍。その後、家督を譲り隠居して勘解由(かげゆ)と名乗る。50歳で江戸に出て、前述したように、寛政12年(1800)、55歳から71歳まで10 回にわたり日本全地の測量を行なった。忠敬の測量は、当初(第一次測量〜第四次測量までの761日間)私財を投げ打って行なわれていたが、それが極めて高度なものであったことから、徐々に幕府からの支援が増強され、国家的事業に育っていった。忠敬は、測量によって緯度1度がおよそ111km程度に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であることを推測。この値は現在計測されている数値と0.1%程度の誤差しかなく、当時の忠敬の測量の正確さがうかがえる。完成した地図『大日本沿海輿地全図』は、極めて精度が高く、ヨーロッパにおいても高く評価された。


最後に--。
江戸時代、おおよその距離と徒歩交通に必要な情報が入った絵図があればよかった時代に誕生した「伊能図」。忠敬の地図が庶民のものとなるのは、幕府に提出された50年も後の明治時代だった。幕府の閣僚が予見したこの地図の必要性。真面目な忠敬がコツコツ積み重ねて描いた「伊能図」は、閉ざした国の国防のためではなく、新しい時代を切り開く道標であったのかもしれない。
 

参考文献
『伊能忠敬の測量日記』藤田元春(日本放送出版協会)
『伊能忠敬の地図をよむ』渡辺一郎(河出書房新社)
『伊能忠敬測量隊』渡辺一郎(小学館)

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