佐多稲子が見つめた長崎
『私の長崎地図』に記した
記憶の中の長崎、原点
  「お諏訪さまの公園は、私たちのいちばん
  遊びにゆく場所だ。学校でこの山を玉園山
  とおそわって、その美しい名を好ましいと思っ
  た。長崎の海を鶴の港と呼ぶということに子
  どもながらに故郷の山や海の名の美しさに
  誇りを感じたものだ。」

昭和23年(1948)に発表された『私の長崎地図』の一節だ。春はこの玉園山で友とともに木から落ちた椿の花を拾い椿の花かざり作りに興じた。四月三日の桃の節句では風習にのっとり、早朝から旧家をまわり、花かんざしをもらって歩いた。
  「私は長崎の陽の光や、海の色や、風の
  感触や蝉の声を身に受けた長崎の少女の
  持っているものが私自身のうちに今もどこ
  かに保たれているのを感じる。」

それは、11歳まで長崎で暮らした稲子の記憶に刻まれた「長崎風景」。キラキラ光る宝石のような輝きに満ちた言葉から長崎への愛着が伝わってくる。

稲子の生い立ちをご存知だろうか。彼女は、明治37年(1904)、父田島正文18歳、母高柳ユキ15歳、ともに佐賀の県立中学、県立高等女学校に通う学生であった二人の間に誕生。もちろん、正式な結婚は許されないため、ユキは追われるように長崎に来て長崎市八百屋町四番戸に住む母方の実弟 田中梅太郎宅で出産した。諏訪神社に程近い梅太郎宅の二階で生まれた稲子。この日は偶然にも諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」の稽古はじめの儀式〈小屋入り〉の日だった。

その後稲子は、戸籍上複雑な経過をたどるが、明治39年(1906)、稲子2歳のとき、弟正人の出生を機に両親が入籍。稲子も引き取られ、伊良林や十人町に移り住んだ。そして明治41年(1908)、稲子4歳のとき、正式に正文、ユキの養女として田島家に入籍している。家には、祖母と正文の妹が同居し、苦しい生活を送った。そして、稲子七歳のおり、母ユキが肺結核をわずらい佐賀の実家で亡くなる。このユキの死がきっかけで、父正文の放蕩がはじまり、稲子11歳のとき、一家は夜逃げ同然で上京。稲子の幼少期は波乱に満ち、複雑な様相を呈していた。

『私の長崎地図』には、幼い稲子が祖母の代わりに竹籠を持ち、築町へ買い物に出掛けたときの様子が綴られている。

  「興善町のあたりから急な坂をおりてゆくと、高い石垣の下は、長崎独特な市場で
  あった。石垣の下には露店のような店が雑多に、小間物も鳥肉も花もお菓子も売っ
  ている。(略)その奥へ入ってゆくと、石畳は濡れ、生臭い臭いに満ちて、大きな魚
  が転がしてあった。市場はいつも活気立って、高い人声に混み合っていた。道ばた
  にも荷ない籠を背負って来た女たちが籠の前に坐って商いをしている。私はいつも
  この市場に来るのが、何となく好きであった。」

稲子は、戦前からプロレタリア作家として活躍した。処女作である短編『キャラメル工場から』は、稲子11歳。上京後、父は定職をもたず貧窮にさらされたため小学校の通学をやめ、実際に働いたキャラメル工場の女工として働いた頃の記憶をもとに描かれたもの。稲子の夫である窪川鶴次郎や中野重治のすすめもあり12年後の昭和3年(1928)、窪川稲子の名で『プロレタリア芸術』に発表し、以降、小説家の道をたどることになる。戦後、窪川と離婚し佐多稲子と改名。これは、父正文の実弟で正文の姉 佐田ミチ、道生夫妻の養子となり、早世した佐田秀実の名にあやかり名付けたもの。その後、叔父の籍をおこし、戸籍上、佐田イネとなった。

上京後、稲子は夫であった窪川鶴次郎や中野重治をはじめ、堀辰雄、芥川龍之介などと交流を深め、宇野千代や川端康成から評価を受け、それら偉大な先輩達に多大な影響を受けていったが、そもそも、稲子に読書や作文への強い興味を植えつけたのは、叔父である佐田秀実だった――。大正元年(1912)、稲子8歳の夏、帰省した秀実とひと夏を過ごした。早稲田大学法科に学んだ秀実は、文学、演劇にたずさわる芸術肌の青年で島村抱月、松井須磨子が創立した芸術座にも加わっていた。稲子は、幼いながらもこの叔父と過ごした夏、少なからずの影響を受け、その思いが後々まで続いていたのだろう。

稲子の代表作は、第2回女流文学賞を受賞した『女の宿』(1962)、第25回野間文学賞受賞の『樹影』(1972)、第3回川端康成文学賞受賞の『時に佇(た)つ』(1976)、第25回毎日芸術賞受賞『夏の栞』(1983)など。また、昭和7年(1932)、当時は非合法だった日本共産党に入党。『渓流』(1964)『塑像(そぞう)』(1966)などは、共産党としての体験をもとに描かれた。

  「長崎の町中で生まれ、何度も借家住まいを変えて暮らし、一家をあげて長崎を
  離れてからは親戚らしいつながりも、長い間帰省することもなかったので、故郷と
  いう言葉で長崎を考えるとき、なにか異和感があるが、町の模様を記憶にたたん
  できたことを思うと、人間の執着のいとしさにおどろく。」

昭和47年(1972)、野間文学賞の授賞式には、池野清の実弟 池野巌氏も出席した。彼は、稲子の作品の4作において装丁を手掛けている。

この年の7月末、秋月辰一郎氏(被爆医師)、池野巌氏、山田かん氏(詩人)など11名の実行委員によって『樹影』文学碑の建立趣意書が作成され、寄付を依頼する運動がはじまった。文学関係者はもちろん、長崎市民有志の篤志により、寄付金は500万円という目標額を超える金額が集まったという。

昭和60年(1985)、12月1日、午後1時。除幕式が行なわれた。この日のことを、『樹影』のあとがきに、稲子は次のように記している。

  「私は初め、その晴れがましさにうろたえた。だが、それはこの作の内容となった
  悲劇が、再びあってはならぬという主旨を表わすものとして見られるなら、そこに
  は意味があろうかとおもって、自分の晴れがましさをも受けた。それはありがたい
  と云わねばならない。が、事実この「樹影」の碑は、私のためのものではなく、原爆
  の、人間にもたらした悲劇を指摘する碑なのである。この意味を、長崎の友人たち
  を発起人として多くの人の醵金によって碑が建ったということのうちに見たい。私は
  そうおもうのである。」
 

最後に――。
夏の朝、長崎公園は清々しい。陽の光、海の色、風の感触、蝉の声……いつまでも稲子のうちに保たれた少女の頃の感覚が追体験できる。『樹影』文学碑を前に、佐多稲子文学に――、原爆の現実に――、今あらためて思いを馳せたい。
 

参考文献
『樹影』佐多稲子(講談社文芸文庫)
『私の長崎地図』(五月書房)
『異国往来 長崎情趣集』大谷利彦(長崎文献社)
 

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